《諜報日誌、102.255。ぼくはイギリス、エディンバラを訪れている。今回のぼくの任務はここにあるヴィオレットの園と呼ばれる館で潜入捜査をすることだ……》

 ヴィオレットの園はヴィクトリア朝時代の宮殿を模した館で、建物自体が大きいだけでなく周辺一帯の土地を買い占め庭園を築き、城壁や堀まで設けられている喫茶店だった。水晶宮のように天井はドーム状のガラスに覆われ、そのなかに一歩入ればヴィクトリア朝時代にタイムスリップした気分を味わえる。

 秘密主義でも知られ内部の写真撮影は禁止。ドーム部分に特殊な加工がされているため衛星からは真っ白に見える。セキュリティ・システムも最小限で防犯カメラのようなものもなく、遠隔で内部の様子を知ることは困難だった。

 経営者はヴィオレットという19歳の少女でその天才的頭脳によって株取引で大成功し若くして一生遊んで暮らせる財産を築き上げてヴィオレットの園を建てたのだ。もちろん単なる道楽で経営しているのはなく、きちんとした収支計画のある実業だった。

 ヴィオレットはお嬢さまと呼ばれていて、従業員はメイド。客はお嬢さまの友人という設定だった。

 テーリはエディンバラに赴任し、小型通信機で本部と通信。ヴィオレットの園に潜入。

《この喫茶店のなにをスパイしろって言うんです?》

《過去、何度か当局が犯罪組織の資金移動の経路を追跡したとき、その喫茶店で複数回、資金の足取りが掴めなくなった。その喫茶店は資金洗浄に利用されている可能性がある。それを探って可能であれば取引現場を撮影し証拠を押さえろ》

 入口で料金を支払い入館。本名の必要はないが、どう呼ばれたいかという名前を記入。希望のレンタル衣装を指定。そしてメイド姿の女性従業員がブレスレットを渡し言った。

「ブレスレットは入退場のほか施設のさまざまな場所で必要になります。入場後1時間までは無料です。それ以上は延長料金が自動発生し退場時にお支払いいただきますのでご注意ください。館内への飲食物の持ち込み、館内での写真撮影、録画、録音は禁止。記念撮影をご希望でしたら、専門のスタッフにお申し付けください。その他諸々の注意事項に関してはパンフレットの裏面をご覧ください。それでは行ってらっしゃいませ、ハセガワ・マリお嬢さま」

 ブレスレットは見た目こそ奥ゆかしい年代的な木製の腕輪だったが、なかにチップが埋め込まれていた。

 彼女は最初思っていたよりだいぶ大仰な対応にどぎまぎしてしまった。

(お嬢さま!? ぼくがお嬢さま!? 入館料って、これって喫茶店というより遊園地じゃないの……?)

 と、テーリはちょっと思った。

 彼女は待機列ですこし待たされた。客は女性ばかり。男性もちらほらいるがカップルの片割れだった。

(なるほど、それでぼくに……てか、喫茶店で待機列って)

 待機列がすこし進んで、その先で男女に別れた。更衣室だ。

「ここで衣装にお着替えください」

 更衣室はそれぞれ個室が用意されており、メイド姿の女性従業員がひとりひとりついていて、着付けをしてくれた。更衣室自体しゃれた感じで、彼女はなんとなくだんだん気分が盛り上がりつつあった。

 レンタルの衣装と言うものの、当時の質感を完璧に再現した衣装単体でも思わず欲しくなってしまうクオリティのものだった。あまりにもヴィクトリア朝時代を再現していて、足元まで届くロングスカートで動きにくいのが玉に瑕だった。

 着替えが終わって先に進むと、大きな門のまえでひとりのメイドが待っていた。彼女は鋭い目つきでつやつやの黒いセミロングで、身長が高く、気高い女性に見えた。

「お初にお目にかかります、お嬢さまのご友人の紳士淑女のみなさま。わたくし、この園のメイド長のマヤと申します。お客さまにご案内します。当館はヴィクトリア朝の再現を徹底的に追求しています。ですから、館内に現代的なものの持ち込みはご遠慮して頂いております。カメラ、携帯電話、その他当時のイギリスに存在しなかったものをもしお持ちであれば、ここでお預けください。ご安心ください。ブレスレットのIDと照合し退場時に返却いたします。門は金属探知機も搭載しておりますことを念頭に置いてください」

 すると何人かはおとなしく携帯電話をだし、IDを登録した。

 テーリは本部との通信機があったので迷ったが、本部にこう告げた。

《金属探知機があるようです。ここで通信機等は電源をオフにして外します》

 それらは傍から見ればイヤホンにしか見えない。彼女はそれを調べられることはないと思っていた。

 もし取引現場を発見した場合に備えフィルムカメラなども持っていた。デジタルカメラの証拠能力が有効だった判例は多く、一時は警察用の改竄防止機構搭載のデジタルカメラが導入されたこともあったが、ハッキング手法も多様化し、警察やスパイが証拠を集めるときは法廷で確実に証拠能力を認めさせるためフィルムカメラを使うことが原則だった。彼女はそれを手放しては証拠が集められないので躊躇した。だがそもそもまだここで証拠が見つかるという確証もない状態なので、彼女はひとまずここの規則を優先し、それらは諦めることに決めた。

 彼女は金属探知機にひっかかりそうなものをだいたい外し、マヤに預けた。

 そして彼女は園に入り、思わず感嘆の声をあげてしまった。

 ヴィオレットの園は外界とはまさに別世界だった。高い壁や植物が背景からビルを巧妙に隠し、現代を思わせるものはなにひとつ見えなかった。天井はガラス張りで木々の葉の影がコントラストをなしていた。従業員だけでなく客の衣装まで当時のそれに変えられているから、どこを向いてなにを見ようとも、現代が2072年だと思わせるものはなにもなかった。

 テーリ自身派手なドレスに着替えていて、彼女はまるでほんとうにヴィクトリア朝時代にきてしまったと感じた。

(今回はあくまで仕事だけど、なにか機会があれば仕事じゃなくてもきてみたいかも!)

 彼女は内心、仕事のことを忘れてわくわくしていた。ここで遊びたかったのだ。