ときに西暦一八〇〇年、ヨーロッパではひとつの時代が終わり、そしてまた新たな時代が幕を開けようとしていた。アメリカはイギリスから独立し、フランスではエジプト遠征から帰還したナポレオンが第一統領として君臨していた。

 毎日のように歴史的な大事件が起こって世間を賑わしても、人々の暮らしはそう大きく変わらない。かれらにとってはとても後世には伝わらないような毎日の些細なできごとや一年に一度の競技会の日に寝坊するほうがずっと大騒ぎだ。

 そんな一八世紀末のウィーンで小さな少女がひとり、彼女の人生を大きく変える、歴史はおろかだれの記憶にも残らない、しかし彼女にとってはとても衝撃的なできごとを体験する。

 少女の名はマグダレーネ・バウムガルテン。一七八九年生まれの一一歳の女の子。内側に向けてカールのかかったセミロングは、光の色を反射して昼には金色にも、夜には銀色にも見える。瞳には色素がほとんど見られず、血の色が透けて赤い目をしている。

 彼女はモーツァルトやベートーヴェンといった名だたる音楽家が活躍したことで〝音楽の都〟とも呼ばれる神聖ローマ帝国の首都ウィーンで、王侯貴族ほどの権力者でもないが貧しい庶民とも言い難い、とても裕福な商家に生まれた。

 この時代の商人たちは世界が刻一刻と、単なる戦争の余波にとどまらないほど大きく、かつ非可逆的な変化を遂げつつあることを理解しており、うまく立ちまわり新しい時代の到来に常に備えていた。

 幼いころからマグダレーネが両親に口を酸っぱくして教えられたことは、商売における〝信頼〟の大切さだった。いわく、世間が想像するよりもずっと、商人は〝信頼〟を大切にするものだと。世界は日進月歩で変化し、国は滅びて貨幣の価値は失われる。〝信頼〟こそが新しい時代でも通用する唯一の通貨なのだと。

 その言葉を、彼女は当然のことだと思いその真意をあまり深く考えたことはなかった。

 そんな商家に生まれた彼女は世界の荒波から守られ、おだやかな生活を当たり前のことだと思い、いろいろな楽器を習っていつかベートーヴェンのような偉大な音楽家になるぞと夢見ていた。

 ある日の夜に、窓を開け風を通しカーテンを開いて月明かりを迎えいれ、マグダレーネはつぎの演奏会のリハーサルに励んでいた。彼女は七歳のころから三年連続コンクールで高く評価され、音楽界ではちょっとした有名人で、少なからぬファンがついていてみんなに将来を期待されていた。彼女は努力が報われることがうれしくありつつも、大人の期待を裏切ってはいけないという切迫感に悩まされてもいた。

 そんなとき開いた窓のカーテンの向こう、ベランダの手すりのうえで、ある一匹の黒猫が不気味にじいっと座っていることに彼女は気づいた。黒猫は金色の瞳のなかのスリット状の瞳孔から彼女のことを見つめている。

 黒猫は不吉の前触れだ。彼女は迷信を過度におそれもしないがまったく不安を覚えないわけでもない。夜に黒猫を見るという現象に対してありもしないことを想像してしまい、背筋がぞくぞくとするくらいにはこわがりの、要するに、いたって普通の年相応の女の子だった。

 マグダレーネはスクエア・ピアノから手を離し、落ち着いて歩きカーテンを閉めようと近づく。

 そのときふいに黒猫から彼女に、『意思の伝達』としか表現しようのないふしぎな言葉が放たれた。

⦅おそれぬのか⦆

 マグダレーネはぞくっとし、思わず両手で耳をおさえた。

(なに、いまの感じ)

 それは『声』ではない。すくなくとも空気が振動することによって伝わる『音声』ではなかった。

 黒猫はわずかに驚いたように耳をぴょこぴょこ跳ねさせた。

⦅おぬしは〝言葉〟がわかるのか⦆

 マグダレーネの心臓がずきりと痛んだ。緊張が血圧をあげ、臓器に負担をかけたのだ。

 彼女には持病があった。彼女は生まれつき心臓が弱く、精神的な負担を感じたり、気温や気圧の変化だけでも、ときには意識を失うほどの事態に発展した。

 この正体不明の黒猫から〝言葉〟のようなものが聞こえるという異質な状況に彼女の胸の鼓動は早まり、ちょっとくらりときてしまったのだ。

⦅答えよ⦆

 彼女はこめかみをおさえた。〝言葉〟がそこから伝わってくるような気がしたからだ。

⦅答えよ!⦆

「わっ、わかんない! あたしに話しかけないで!」

 黒猫はじっと動かず、そこにたたずんでいる。

⦅……久々におもしろい人間だ。二〇〇年ぶりに楽しめそうだ⦆

 彼女はその〝言葉〟を防げないことがわかったこともあるが、それよりこの〝言葉〟を操る奇妙な黒猫がすくなくとも敵対的な存在ではないと感じられ、対話ができる気がしてすこし安心したことで、こめかみから手を離した。

「な、なによ。二〇〇年って……」

 彼女は不安を感じないわけではなかった。しかしふしぎと恐怖は感じなかった。

(猫としゃべるなんておかしい気もするけど、でも、こわい感じはしない)

 黒猫は尻尾をもちあげて自己紹介をした。

⦅わしはメフィストフェレス。聞いたことはないか?⦆

 彼女は伝説にその名を聞いたことがあった。

「……一六世紀の錬金術師のファウスト博士が召喚し、魂とひきかえに魔法の力を与える契約を交わしたっていう、悪魔だね。でも、悪魔なんて……」

⦅いないと思うか?⦆

 マグダレーネにとって『悪魔がいるかいないか』なんて簡単には答えられない質問だ。悪魔がいるから災いが起こるのだとされているし、もし悪魔がいないのだとすれば、数々の災いが起こる理由を説明できない。病気も、天変地異も、みんな悪魔の仕業なのだ。

 それは『信じるか信じないかは個人の自由』というほど単純な話ではない。〝悪魔〟と呼ばれるこの世に実害をもたらすなにかが実在するからこそ『魔女裁判』といった現実の犠牲者を伴う行為が容認されてきた歴史があるからだ。産業革命や科学技術の発展などの近代化によりすでに過去のものになりつつあるとはいえ、世界に災いをもたらす〝悪魔〟と呼ばれるなにかが実在するという考えは、いまも根強く残っている。

 そして原因不明の災いが突然現れ、ときには戦争よりもたくさんの人々が亡くなる事件が現に起きている以上、その原因とされる災厄の根源としての〝悪魔〟の存在を否定するのであれば、それに代わるなにかがあると証明し、『悪魔祓い』よりも有効な方法を発見しなければならない。

 もちろんそれは世間ではそう捉えられているという話で、彼女自身はどちらかといえばニュートンやオイラーのような〝科学的〟な考え方に惹かれていたし、悪魔というものをもちださなくても、世界にもたらされる災いを合理的に説明し、また解決できると希望的に考えてもいた。つい最近も壊血病というおそろしい病気に、医学的に有効な対策が存在すると実証されたのだ。

 とはいえそんな彼女でもどうしても悪いことが続くと『ひょっとしたら』と思うことがあることは否定できないし、なにより周囲の人々に『不信心者』とかののしられることがおそろしくて、そんなことを強く主張する度胸も意思もなかった。

「わからないよ……それより悪魔さん、あたしになにか用なの?」

⦅音楽を聴くだけのつもりだったが、気が変わった⦆

「い、嫌なことはしないでね」

⦅心配するな。喜べ。おぬしを不老不死にしてやろうではないか⦆

 マグダレーネはどきりとした。そのとき彼女の心臓がひときわ強く跳ねたことで、彼女は咳きこんだ。口を押えた両手を離すと、そこには血がべっとりとついていた。

 黒猫はそれを見て静かに言った。

⦅発作か⦆

 発作という言葉は繰り返し起こる病気に対して使うものだ。マグダレーネはこの黒猫がその単語を使ったことで、病気のことを知っているとわかった。

「なんで、知ってるの」

 黒猫は吐血する彼女を心配する素振りも見せず、さも当たり前の、ごく自然の、日常にありふれた光景を見るかのように答えた。

⦅……じつを言えばおぬしのことを、もう一〇年も近くで見ている。おぬしだけではないが、この街の子どもたちの成長を見守るくらいしか、もうわしには残された楽しみがないのだ。日に日に発作の頻度が増えているようではないか……おぬしの両親が医者に真実を告げぬよう訴えている理由は、わからなくもない⦆

 マグダレーネはその言葉の意味を理解した。

 医者の診立てでは、余命はもう一年もなかった。彼女の病気の原因は不明で、処方薬は苦痛を和らげ症状を一時的に緩和する程度の対症療法でしかなかった。

 それは彼女に伝えられてはいないが、彼女も薄々それを悟っていた。

「あたし、もう死んじゃうんだね」

⦅そうだ⦆

 黒猫はひどく冷徹に答えた。

⦅だが、わしならおぬしの病も治せる⦆

 マグダレーネは迷った。

 悪魔の誘惑なんて教科書通りの展開だ。そしてそういうときの対処法も教わっている。彼女は誘惑に負けずに断った。

「……いいよ。悪魔というからにはどうせ、魂を奪うぞー、なんて言うんでしょ?」

⦅そうではない⦆

「なんの対価も要求しないの?」

⦅いいや、おぬしはわしを誤解している。わしの力はおぬしとそう変わらぬ。そのような魔法の力はないのだ⦆

「そうなの?」

 マグダレーネはおかしくなった。

「矛盾してるよ。じゃあこのふしぎな〝言葉〟はなんなの? 魔法も使わずにどうやってあたしの病気をなおして、あたしを不老不死にしてくれるわけ?」

 黒猫はぴくりとも動かず、表情の変化にも乏しく感情を読みとれない。

 言葉のないすこしの間が、ひゅうひゅうと鳴く風の音をひときわ印象強いものにした。

 やがて黒猫は静かに答えた。

⦅……わしは悪魔ではない。いまではそう伝わっているようだが事実ではないのだ。わしはファウスト博士に生みだされたホムンクルスだ⦆

 マグダレーネは半信半疑だった。

「たしかに、きみが悪魔だってよりはまだ〝科学的〟な説明に思えるね」

⦅……〝科学的〟か……。いまではそう表現するのだな⦆

「あたしは〝非科学的〟なお話はあまり信じないもの」

⦅博士はこの時代の言葉でいうところの優秀な〝科学者〟だった。しかし、博士の偉業は人々に〝魔術的〟と評され処刑されてしまったのだ⦆

 マグダレーネはメフィストフェレスの言葉に息を呑む。彼女の心は疑いに傾いた。仮にこの黒猫が錬金術師のつくりし人工生命だとして、伝説のファウスト博士に関する話にはいまのところ証拠がない。彼女はメフィストの言葉をすべて信じる気にはなれなかった。

(でも、猫とおしゃべりするのだっておかしいのに、いまさら……)

 メフィストはほおの毛をかいて、月を見つめ遠い過去を思いだすように言った。

⦅博士の業績はやみに葬られ、いまでは閻浮(えんぶ)の塵とも残っていない⦆

 過去のできごとのうち、しっかりと記録されることなんてほんのわずかだ。ほとんどのことは記憶にしか残らない。証拠になるものもどんどん老朽化してしまうし、ほんとうのことでも、時間が経てば経つほど証明は難しくなる。

 一世紀も経てばほとんどの友人は失われてしまう。新天地を探そうとも、自身の過去を無根拠に信じてくれるような相手はもはやいないのだ。

 マグダレーネはまだ幼かったが、何世紀も生きているというこのホムンクルスの内観を想像した。

(きっと寂しいだろうな)

 彼女はそう思った。

(……不老不死なんて〝対価〟を提示しないと友達になってもらえない、ひょっとしたら話も聞いてもらえないと思っているのかな)

 だからマグダレーネは、その哀愁ただよう後姿を見て、どうにも放っておけないきもちになったのだ。

 彼女はたずねた。

「こういうことは論より証拠。百聞は一見に如かず。なにか見せてよ。あたしを不老不死にできるような発明は残っているんでしょ?」

 月を見ていた黒猫は驚いたように振り向いた。

⦅必要ないのではなかったのか⦆

「……必要あるかどうかはともかくもしそれが〝科学的な〟なにかなら、興味はあるよ。だから、なんていうか、話くらい聞いてもいいかなって思っただけ」

 すると黒猫はうれしそうに答えた。

⦅そのむかし博士が発明した秘薬があるのだ。もちろんなんの代償もないというわけではない。薬には副作用がつきものだ……老いなくなるということは、成長しなくなるということでもある。おぬしはその幼い少女の姿のまま、未来永劫過ごすことになる⦆