「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 物見遊山、水無川神社の夏祭り! そこであなたが目にするものは、世にも珍しい『西洋婦人』! その女の子! 齢一一の商家の娘、ピアノ弾き、蘭方医学の専門家。いま西洋で、盛んに流行る長寿の秘訣は瀉血なり。ただし危険なので、専門家の助けなしで行うことはぜったいにおやめください」
例年のように巫女装束の連理が神社で参拝客を案内しているが今年はちょっと違った。神社に見慣れない『西洋婦人』がいたということだ。参拝客たちは奇妙な『医療行為』をふしぎに思いつつも、地元では信頼の厚い連理の言うことならと、ひとり、またひとりと集まり、まえのだれかが試したのを見て平気そうならと、だんだんとマグダレーネの施術に抵抗なくひとが集まりいつしか長蛇の列をなしていた。
最初マグダレーネはひとり一ポンドのつもりだった。列の長さを見るとすでに一〇〇人を超えていることが明らかで、何度も折り返して神社の敷地を覆いつくさんばかりだ。
瀉血の場合穢れを祓うために血を抜くのだから、抜いた血はそのまま捨てる。もちろんマグダレーネはそうはしない。
すでに三〇ポンド近く袋に詰まった血液を見て、マグダレーネはこんなことがあり得るのか、目のまえの光景が夢ではないのか何度も目をぱちくりしたり頬を叩いて確かめた。
「うそでしょ……あたし、なにを見てるの。あたしが何年も頑張ってきたことを、こんな一日で。レンリ、どうやったの」
「わたしはなにもしていませんよ。行動したのはあなたです。あなたがわたしを〝信頼〟してくれた。ただ『信じて待つだけ』じゃなくて、わたしを『信じて頼って』くれたのが大事なんです」
するとマグダレーネは顔を伏せた。
「あたしこそなにもしてない。あたしはただ逃げていただけ。逃げて、逃げて、逃げて……幸運がいくつも重なった」
「いえ、逃げるのも、そしてひとを頼るのも、立派な行動です。あなたが逃げて、ひとを頼ったからこうなった。それはただの『幸運』なんてものじゃありません。立派なあなたの『行動』の賜物ですよ」
「でも、自力ではなにも……レンリに助けられてばかりで、あたし、情けないよ」
「そんなことないです。いまだって医学の知識を応用しているじゃないですか」
「でも、そんなものじゃぜんぜんひとを集められなかった」
「そうですね。だから〝信頼〟は大切なんです。自力ではできないことを、他者を信じて頼るってことです」
連理はそうして遠い雲の向こうを見て続けた。
「わたしは地元では信頼されています。そのわたしがあなたを信頼した。だからみなさんあなたを信頼してくれているんです。ありがたいことです……これが〝信頼関係は万両に勝る価値がある〟ってことです」
マグダレーネは理屈としてはわかるものの、だれか他者を〝信頼〟するだけでそんなに都合よくうまくいくのかと、疑わしくなった。
そこで彼女は連理をすこし『試す』ことにした。
「たしかに、こういう意味だと〝信頼関係〟は大事だね。それはわかるよ。でもそれって結局ひとを〝利用〟してるだけじゃない? レンリだってあたしを〝利用〟してるよね。あたしがここで『見世物』になれば旅館のお客さんが増えるんだから。あたしたちはただ〝利害関係〟にあってたまたま利害が一致しただけ。協力関係なんて『一期一会』の儚いものだよ」
こうやって彼女が辛辣な言葉を並べるのは、じつのところ連理の言う『信頼』が本物かどうかを試したくての行動だ。彼女は連理の『信頼』の程度を試す方法を、彼女のことを傷つけることしか知らない。
「だから……あたしがレンリを〝信頼〟する必要なんてない。きっと、あたしはレンリを〝利用〟してもうまくいったと思う。だってレンリもあたしを〝利用〟しているんだし、お互いに〝利用〟しあう関係だからうまくいっているだけだよ」
しかしやはりというべきか、連理は手強い相手だった。
彼女はにやりと意地悪そうに笑って、答えた。
「ほんとにそう思います?」
マグダレーネはそうたずねられると悔しそうにした。こう答えざるを得なかったのだ。
「……思わない」
「どうしてですか?」
「それをあたしに言わせるわけ!?」
すると連理はつんとした。
「だってわたしが言ったって仕方ありません。これはマグダレーネがわかって初めて意味のあることですよ」
マグダレーネはうぅと切なそうに鳴いて、言った。
「あたしがレンリを〝利用〟しようとしても、それは必ずレンリに伝わるから。あたしがレンリを心の底から〝信頼〟しているってことが伝わって、初めてレンリはあたしに味方しようと動いてくれた」
「そうです!」
連理はうれしそうに答えた。
「結局〝利用〟するしないなんて、隠せるわけないんです。必ず相手に伝わる。とくに、そういうのがうまい相手ならなおさらです。相手を『騙して利用する』なんてことはもとよりできっこありません。だったら最初から誠実に行動したほうが、必ず相手はあなたのために動いてくれます」
そこで彼女はひと息ついて、すこし間を置いてから続けた。
「たしかに他者から見たらわたしたちは単なる『利害の一致』でいま協力関係にあるように見えるかもしれません。でもそれは〝信頼関係〟があるからこそできることなんです。だってそうですよね。たしかに旅館はあなたが活躍すればすこし多く儲けられますけど、年間の売上に比べたら微々たるものです。それよりずっとお上に罰金でも科せられる危険のほうが大きい。だからわたしは単なる『利害関係』であなたに与することはしません。ただ〝信頼関係〟にあっても、片方が一方的に不利な取引はしないってだけです。それは結果的に『利害が一致』はしますが『利害が一致』したからといってむやみやたらに契約するわけもありません。商人はもっとずっと〝信頼〟を大切にするものなんです」
マグダレーネはぽけーっと惚けて彼女を見ていた。最後の言葉は、彼女が幼いころに、両親から口を酸っぱくして聞かされた言葉そのものだったからだ。
それでも、やはり、それはマグダレーネのこれまでの人生経験においてはあまり妥当性があるとは思えなかった。彼女はいまだ半信半疑だったのだ。
「再現性があるとは思えない。相手がたまたまレンリだからうまくいったんだ。たとえば相手が悪いやつだったら、かえって痛い目を見る」
「それはそれでですね、やり方があるんです。ただ……難しいです。マグダレーネなら、きっとほんとに〝信頼〟できると思える相手を頼るのが大事だと思います」
すると彼女はむすっとした。
「それってなんか、あたしが未熟って言われてみるみたい」
「正直に言うと、わたしよりはだいぶ。でも成長はしてると思います。きっと邦に帰っても、もう大丈夫です」
一週間ほど経過しすっかり回復したお雪が、神社の端でそのときの様子を絵にしつつ、ときおり思い出すように言った。
「ふうむ、あれが例の瀉血というやつか。あの夜のできごとは、西洋では有名な医療行為だったのだな! やはり屋内と屋外ではむーどというやつが違うのか。むむ……奥深い」
彼女がそうして絵を描いていると、気づけば日も暮れてお祭りもお開きで、残るは連理とマグダレーネ、そしてお雪だけにもなっていた。
連理は時刻も忘れてずっと集中して絵を描いている彼女にたずねた。
「あの、わたしたちは旅館に戻りますが」
「ほえ!? あ、ああそうか。もうそんな時間か。下山は危険だな。ふむ、もう京に発つ予定だったがさてどうするか」
お雪はちらりちらりとマグダレーネを見ていた。
マグダレーネは彼女の視線に、ばつが悪そうに連理に頼んだ。
〝レンリ、ユキにごめんなさいって伝えて。これから旅館に戻ってひとりひとりに事情を説明するけど……ユキには、ここで〟
連理はそう聞いて、すこしうれしくなって通訳した。
「お雪、彼女、謝ってますよ」
「謝っている!? なんのことだ」
「はあ。えっと、先週のことを覚えてないですか?」
「ぼくは三日よりまえのことは気に留めない主義なんだ。もっとも、三日以内のことでも大して気にはしないがな。はっはっは。なにがあったのかは知らないがまあ気にしないでくれと伝えてくれ」
〝……だ、そうです、マグダレーネ〟
連理は一字一句たがえずに伝え、マグダレーネはすこし心が楽になった気がした。
結局マグダレーネは幕府に届け出て、四ヶ月程度の滞在ののち、冬には船に乗って帰国することを命じられた。
「レンリ、やっぱりだめだった。帰ってくれ、だってさ」
「んー、まあ、そうでしょうね」
連理はこのあたり案外冷めていた。
「でも、逆に言えば四ヶ月は滞在できるってことじゃないですか。それに旅館でわたしがつきっきりで監視することを条件に、ですが、ある程度自由に出歩くことはできるみたいですし、よかったじゃないですか」
「……そうだね」
「まあ未来はわかりません。幕府の政策が変われば渡航や貿易がもっと自由にできるようになるかもしれませんし、そうなったら、ぜひまたきてください。旅館でいつでもお待ちしています。もちろんそのときわたしが生きていれば、の話ですが」
それを聞いてうれしくありつつも、なぜだかマグダレーネは、どこか悲しかった。
この先の彼女の人生で、連理が生きているあいだにふたたびここを訪れる機会なんて、ないかもしれないのだ。
マグダレーネはこれが彼女と話すことのできる最後の機会だと、覚悟していた。そしてそれがとても悲しいことのように思えた。
「でも、どこにいるかなんて大した問題じゃないですよ。〝信頼〟はつぎに繋がります。国境も時代も越えて。ひととの縁は『一期一会』です。でも、だからといって傍若無人にふるまうとつぎに繋がりません。『一期一会』だからこそ誠実に生きるんです。そうしてできた〝信頼〟の繋がりは、たとえ表層的には『一期一会』に見えても、永遠なんです。亡くなってさえ、そのひとへの〝信頼〟は周囲のみんなの心に残る。〝信頼〟は激しい炎じゃなくて『灯明の火種』なんです。〝きっかけ〟さえあればいつだって、当時の情動を思い出すことができます。それが『信頼がある』ってことです。きっと、ね」
だから彼女は連理の言ったことが、とても大切なことのように思えた。
「マグダレーネ、邦に帰っても、世界のどこかにはあなたの『味方』が必ずいることを、忘れないでください。肝心なことはそれなんです。世界のどこかに『味方』が必ずいると思えるから、あなたもだれかの『味方』になろうと思える。それが大事なことなんです」
その言葉に心を動かされ、彼女は胸のまえで拳をぎゅっと握り、思っていたことを告白した。
「ねえ、レンリ、音楽室に行きたいの」
連理とマグダレーネは音楽室に向かう。
そこでマグダレーネは即興で紙を広げ、暗記している楽譜を描いて見せた。
「レンリ、ピアノって弾ける?」
ぎく、と連理はおどけた。音楽は苦手なのだ。
「……いえ、弾けません」
「いいよ。教えてあげる。ね、音楽ってね、知ってるとは思うけどひとりで演奏するものだけじゃないの。ふたりで演奏するものもある。『連弾』って言うんだけどね。レンリはこっちのパートを弾いて」
とはいえ連理には楽譜はちんぷんかんぷんだった。
「読み方が……この、おたまじゃくしの意味というか」
マグダレーネは彼女の意外な弱点にきょとんとしてすこしおかしく、またかわいらしく思えた。
「いいよ。じゃ、最初からね。えっと、この線の高さにね……これは、鍵盤のこの……」
このときマグダレーネは連理の飲み込みの異様な速さに驚いていた。彼女は聞いたことにつぶさに耳を傾け、わからないことをひとつひとつ質問し、きちんと理解してから先に進む。
一時間もするころには、連理はなんと楽譜の読み方とそれに対応するピアノの弾き方を理解してしまっていた。
もちろん指の動きはだいぶぎこちないが、それでもいろいろ見てきたマグダレーネにはひと目で『成長するタイプ』だとわかった。
それ自体マグダレーネにはすごいように思えたが、なによりこれから弾こうとしている曲を問題なく弾けそうで、ほっとするものがあった。
ふたりは軽く何度か試しに弾いた。
ふたりでひとつのピアノを共有する、連弾という演奏形式。
ひとしきり弾き終えて、マグダレーネは素直な感想を口にした。
「レンリ、ほんとに初めて? すごくうまい」
それはお世辞ではなく彼女の心の底からの賛辞だった。彼女は正直にそう思ったのだ。
「はは……そうですかね」
連理は珍しくこそばゆそうに笑った。彼女もまた素直に褒められてうれしかったのだ。
それから彼女はたずねた。
「軽快で、楽しそうな曲ですね。なんの曲ですか?」
マグダレーネは恥ずかしそうに答えた。
「ベートーヴェンの四手のためのむっつの変奏曲。主題はゲーテの『君を想う』……」
連理はその名前を西洋の書物で読んだことがあった気がした。
「……ゲーテの『恋人の傍らで』という詩の一節に、ベートーヴェンが曲をつけたもの。ウィーンで貴族の姉妹に、かれがピアノを教えたときのもの……」
連理はすこし思うところがあって、たずねた。
「その詩は、どういうものなんですか?」
マグダレーネは耳まで顔を赤くしてしばらく答えなかった。
だがほどなくして、ぽつりと言った。
「……遠く離れていても心はいつも『傍ら』にいるの。そんなことありえないって……思ってた。いままでは、ね」