「旅館にはいくつかの区画があります。登山家をはじめ日帰りでいらっしゃるかたも多いので、本棟のお食事処や休憩室、それからいくつかの温泉は宿泊客でなくともご利用可能です。というより、もともとこの離れは宿泊施設ではなく母屋から足を運んでくるところだったものを、最近になって足を運んでくださるお客さまが増えてきたということもあり宿泊棟を新築したという背景があるからですが」
旅館のまえで、連理がマグダレーネに説明した。
「ふうん。母屋はどこにあるの?」
「ここからすこし降りたところで、神社とはちょうど鋭角三角形のような位置関係です。神社よりは近いですが、それでもそこそこ歩きます。歩き慣れてないと神社からここまで半刻、ここから母屋まで四半刻はかかります。ふもとからならどちらも経由せずに一直線にきたほうが早いです」
マグダレーネは興味津々で聞いていた。
「それから図書室の蔵書はだれでも無償で読むことができます。もっとも洋書や専門書が多いので、読めれば、の話ですが」
「どうして本は無料で読めるの?」
「知りません。ご先祖さまの意向で、水無川旅館の規則の最初に書かれています」
「ふうん。営利化はしないの?」
「どうせだれも読まないので、したってしょうがないです」
マグダレーネはけらけら笑った。
「旅館には宿泊施設以外にもいろいろありますが、なにぶん利用者がいないのでほとんど装飾品状態です。最近はむしろ積極的に無料で利用できるようにして集客に利用する戦略を検討していて……」
マグダレーネはおなかをかかえてどっと笑った。
「わっ、笑わないでください。とにかく入館するならわたしはあなたを、宿泊客か日帰りのお客さまか、あるいは従業員のいずれかとして扱うことになります。ただし……」
連理は真剣になって、マグダレーネのほうを向いて目をあわせた。
「ふたつ、大事な注意事項があります」
マグダレーネは彼女の真剣なまなざしに、真剣に耳を傾けて応えようと感じた。
「ひとつ。まず本棟には宮という神聖なところがあります。ご先祖さまの霊を祀る霊廟で水無川の家のもの、それも特別なときにしか入ってはいけません。それから……」
マグダレーネは息を呑んだ。彼女はあまりこういった神事に関心がなかったが、相手のことを尊重してそのとおりにしようと思い、もうひとつの注意事項を待った。
「……あなたを従業員として雇用することは、できません」
マグダレーネはショックを受けた。てっきりそうなると思っていたのだ。
「どうして?」
「まず外国人を雇うにはお上におうかがいを立てる必要があります。でないと罰せられるのは旅館なんです。見て見ぬふりはわたし個人のことですが、雇用関係にあれば公式書類が残ります。わたしは旅館を守るために、あなたを雇うことはできません」
筋の通った理由だと思い、マグダレーネは納得した。
「宿泊客としてならどうなの?」
「灰色、ですね。宿泊客の身分を確認するのも旅館の義務です。ただし雇用関係ほど厳密にする必要はありませんから言い逃れはできます」
マグダレーネは暗いきもちになった。
「でも、追及されはするんでしょ?」
「はい」
「……じゃあ、日帰りの客ならどう?」
「それは大丈夫だと思います。さすがにそこまでいちいち確認する時間はありませんから書類も残りませんし、お上に説明するときも適当に言えばいいんです」
マグダレーネはすこし明るい顔になった。
「なら、ひとまず休憩室をお借りすることにするね」
「それと」
歩きだそうとする彼女を、連理は止めて最後の注意をした。
「ここまでは連れてきましたが、あくまで無関係なお客さまとしてふるまってください。わたしが先に旅館に戻るので、すこし遅れて知らんぷりで入ってくるんですよ」
連理が先に旅館に戻り、マグダレーネは連理に言われたとおり、太陽のもとでしばらく待っていた。
昼前で、陽がのぼりきり岩肌が熱される炎天下で、空気も暖まり、温泉地ということで湿度もすさまじく、あたり一帯がサウナのような環境だった。
高緯度の生まれのマグダレーネはそれだけでくらくらとなるほどの気温。
それに彼女固有の事情もある。
日傘でどうにか陽を遮っているが、これほどの強い太陽光を浴びれば、彼女の肌はすぐに赤みがかって、やけどになる。陽の光は彼女にとって、火刑台の炎そのものなのだ。
もちろん数秒くらい触れただけでは大事には至らない。数分、だと氷で冷やせば数日でなおる程度の軽症で済む。数時間だと生命にかかわる。
季節や時刻にもよる。午前一〇時程度までであれば、日傘なしでも日陰を選んで歩けば通常の生活を送ることができる。正午になると、太陽光が『熱い』から『痛い』の感覚に変わり、とても生活どころではなくなる。
この時刻の屋外は、彼女にとって周囲を炎で包まれているような世界だ。
彼女はふと、ほんの好奇心で、日傘で守られた陰から指先を、ほんの数秒だけ太陽光に触れさせた。
じりじり、と表皮が焼ける痛み。
それに耐えながら、彼女は指先を戻した。
赤く、くっきりと暖色が残った肌。
(お日さまの光は、この国でも同じなんだね)
太陽は世界にひとつしかない。それが国によって異なる作用をもたらすとは考えにくい。
だから彼女はそれが当然の実験結果だとも思いつつ、どこかがっかりしてもいた。
(科学、か……あたしは一〇年以上も研究を続けても、あたしがいちばん知っているはずの、あたし自身の病気さえ治せない。いまだ手がかりさえ掴めない。こんな小さな実験を繰り返し、いたずらに本を読んでは偉大な先達の知識に学ぶばかりで、有意味な、新しい結果をなにもだせないでいる。あたしは科学者として、どんなに無力な存在なんだろう)
一時間ほど経ち、正午。
マグダレーネは崖際で日傘をさして、足元に広がる大自然と果てしなく広がる水平線を眺めながら待っているあいだに、ちらほら現れる登山客たちが旅館に吸い込まれるように歩いてゆくのをときおり目にした。
旅館はふもとから歩くと、水無川神社を経由せず一直線に、休憩なしで向かったとして経験者でも片道一時間弱かかる場所にある。神社を経由すれば一時間半。もし体力に自信がなければ、片道二、三時間と見て予定を組むのが無難なところだった。ちなみに連理は片道四〇分で歩く。
水無川旅館の日帰り客は、旅館というよりもむしろ、登山の休憩所として利用することが多い。朝方に出発すれば、神社を経由するコースを休み休み歩いてもお昼前後には旅館に着く。温泉で疲れを癒し、食事をして夕暮れまでには下山できる。この予定でおおよそ八時間。
旅館よりさらに高いところへ向かう場合、日帰りというのはそうとう難しく、危険だ。生兵法は大怪我の基というくらいで、中途半端な経験者ほど休憩をせずに痛い目を見る。そういった理由で旅館で一晩過ごす宿泊客もいる。
また旅館より高い標高にあるものといえば、山頂から見える風景を除けば噴火口くらいしかないが、活火山なので珍しいものが見れるらしく、毎年もの好きが絶えない。
それゆえ旅館のお客さんが正午に押し寄せるのは水無川旅館の立地の関係上、必然的なことだった。
マグダレーネは最初、服装も顔立ちもぜんぜん違うのでかれらにふしぎがられないかが不安でなかなか歩きだす勇気がもてなかったが、多くの日本人にまじって、オランダ人のお客さんも少なからずいることを見たことで、意を決して歩き始めた。