水無川神社から水無川旅館まではそこそこの距離を歩く。山道を歩きなれた連理に比べマグダレーネは小柄ですぐにばててしまい、それでなくとも歩く速度に大きな差があったため、時間を節約するためにも鹿のヤフトヘルトの背に乗せてもらった。
「Jachthert……オランダ語で〝猟鹿〟だね。いい名前」
ふたりは若干の傾斜のある下り坂を降りていた。坂は石畳で舗装され荷車が走りやすいようになっていた。
その坂からすこし離れた林のなかに、いくつもの鳥居が神社から遠ざかるに連れ徐々に小さくなるように配置されていた。鳥居のそばには狐や兎といったどうぶつを模した石像が奉られていて、鳥居のなかは舗装されておらず〝けもの道〟になっていた。それは山の奥へと続いていて、ついにはマグダレーネでも通れないほどの小ささになってしまった。
「あの鳥居のなかは、神社を訪れる神々の使いのための道と伝えられています。歴史学者によれば、戦国時代の水無川の巫女の時代には、春になるとこの道をたいそうたくさんのどうぶつが往来したことがその伝説の由来だそうです。いまでもときおりそのような様子を見ることができます。神聖な道なので人間が歩いてはいけませんよ」
マグダレーネはただの〝けもの道〟を神聖なものと捉えるアニミズム的な文化をふしぎに思いつつも、郷に入っては郷に従えの精神で言うとおりにした。
「それにしても、若女将って偉いんでしょ? なのに買い出しなんて雑用、大変だね」
マグダレーネは途中で連理にたずね、連理はその言葉にすこしかちんときてしまった。
「雑用ではありません。料理は食材が命。仕入れから勝負は始まっているんです。料理の味にかかわるだけでなく旅館の名前で決済することになりますし、好き勝手浪費されたらたまりません。それに営業も兼ねています。世間は狭い。街中顔見知りです。旅館の代表が粗相を働くようなことがあれば家名に傷がつきます。とても雑用係に任せられるようなことではありません」
マグダレーネは彼女の怒涛の勢いに驚き、こくこくとうなずいて納得した。
「もちろん、ほんとうはそれぞれ専任を雇いたいきもちはあります。でも旅館にそれだけの経済的余裕がありませんから……結局専任を雇うほどのことでもない雑事こそ、ぜんぶわたしが捌くことになってしまうという事実は否定できませんが……」
マグダレーネはけらけらわらった。
「体のいい雑用係だね」
「いえ、お得意さまがいらっしゃる繁忙期は臨時にお手伝いさんを雇って、わたしが旅館でお客さまのお相手をつきっきりでいたしますから」
「ところで金一両って何グルデンくらいなの?」
ヤフトヘルトの背のうえで日傘をさし、マグダレーネは連理にたずねた。
彼女は日本のお金をもっていないしその価値の相場も知らない。いまでこそイギリスのポンドに国際通貨としての立場を譲りつつあるが、かつてオランダ・グルデンは東インド会社の貿易により各国間の取引で信頼性の高い貨幣として使われ世界を圧巻した国際的な通貨で、しかも長崎にはオランダ商館もあって連理はオランダ語を話せもしたので、彼女なら知っていると思ったのだ。
「一〇グルデンくらいでしょうか」
マグダレーネは目を丸くした。
「三泊四日で一〇グルデン!? ……なかなか高級な旅館なんだね」
「これでもかつかつ、負けに負けてます。〝三泊四日、金一両〟は水無川旅館の宣伝文句で、松竹梅の竹には分類していますが、客室単価は一日あたり銀二〇匁。奇跡的な客室稼働率を達成しないかぎり、これじゃあ赤字です」
「モンメって?」
「あ、ごめんなさい。金一両は銀六〇匁と同じ価値です」
「なるほど」
「とにかく一日あたりの客室単価が銀二〇匁ですと、旅館としては大赤字なんですね」
「そうなの? でも、もちろん暮らし方にもよるとはいえ、一〇グルデンもあればひと月は暮らせるよね」
「それはひとりで暮らすならそうですよ。旅館の経営はもっと切実なんです。旅館は母屋と離れに分かれていてあわせて一六部屋あります。従業員が二七人――経験豊富な仲居さんも若い仲居さんもあわせて八人、受付さんふたり、熟練の料理人から皿洗いまで厨房で働く調理係があわせて七人、温泉と旅館の清掃係が五人、図書室の司書さんや購買部の売り子さんたちあわせて四人、お客さまのご予約の状況やご来館の日程、部屋の空き状況などの調整・管理係がひとり――いて、ひとりあたりのお給料が一日五から一〇匁、あわせて年間でおおよそ平均一日二〇〇匁の人件費がかかります。金一両は銀六〇匁ですから三日で銀六〇〇匁つまり金一〇両、ひと月金一〇〇両、かなり大雑把な試算ですが旅館を運営するだけで一年で固定費が金一〇〇〇両以上もかかっていて、それだけの売上を立てることが黒字の最低条件です。客室稼働率が五割だと三日で売上金八両、費用一〇両、金二両の赤字。ここからさらに幕府に税を納めないといけなくて……」
マグダレーネは怒涛の数字の羅列に目を丸くした。彼女は数字が苦手なわけではないが連理が思った以上にしっかりものだとわかったからだ。
「……あ、ひと部屋あたりの売上のことを客室単価と言うんです。一日あたりの平均客室単価が銀二〇匁ですと年間の平均客室稼働率六割五分でやっと黒字で、これってすごく、難しい数字なんです。平均客室単価銀三〇匁、平均客室稼働率五割で三日金二両の黒字。税金も納めますから年間の純利益はせいぜい金二〇〇両ってところ。そこからわたしと女将のお給料がでますが、うちはそれだけでもないんです。旅館の修繕維持費、庭の園芸の管理費、徴税人との交渉の代行費……神社もあります。設備の点検と補修費、祭事や神事の準備の諸費用……手元に残るお金は、ほんとに寂しいものです」
いろいろとだべっているうちに、ふたりは目的地に到着して、連理が言った。
「着きましたよ」
水無川旅館の離れは神社から林のなかの石畳の道を四半刻ほど歩いた場所の、崖のそばにあった。崖の先には長崎の森と港町、そして往来する船舶と果てしなく広がる水平線が見張らせた。
マグダレーネはその言葉を失う絶景のみならず、連理の実家だというその旅館の豪勢さに開いた口がふさがらなかった。
水無川旅館は遠目にも幅が一〇〇ヤード、奥行きが一〇か二〇ヤードはあろうかという大きさの平屋が、それも二棟あった。日本の文化をまだよく知らないマグダレーネでさえひと目で寝床さえあればよいというような『庶民の泊まる宿』に分類されるものではないとわかった。
「どれだけ高級な旅館なの……」
「本の間二一畳、つぎの間八畳、踏込三畳。お庭が裏と表であわせて三二畳、裏には厠があって、表には露天風呂と地獄釜があります。あわせて六四畳。それが八部屋。客間だけでも五〇〇余畳。それが離れの宿泊棟。さらに西洋の遊技場、演奏や演劇の会場、蘭学の図書室、お土産品などの購買部、また旅館の調理場や仲居さんたちの休憩室のある本棟をあわせて一五〇〇畳。わたしは女将に、この離れの経営の一切を任されています」
マグダレーネは、彼女の苦労話の数々を聞かされても所詮は辺境の未開の国の平民なのだと、無意識的にしろどこか無根拠な優越感を覚えていた彼女自身が恥ずかしくなった。彼女はここまで聞かされて初めて目のまえにいるこの女の子が、どこか遠い世界で必死に現実を生きる、彼女がずっと世界の中心地だと思っていた西洋の人々とはまた別の意味で高貴で気高く、また誇らしい存在なのだと理解できた。
「……レンリは王侯貴族のかたがたのお相手をするような若女将さんなの?」
「まあ、似たようなものです」
マグダレーネはさらに連理の言葉を思い出していた。
「……母屋と離れ、ふたつあるって言ってたよね」
「はい」
「このふたつの建物が母屋と離れじゃなくて、離れだけで本棟と宿泊棟があって、さらに母屋が別にあるの?」
「はい。あちらは女将の管轄で、わたしはあまり行きませんが……」
それは連理がこの大きな離れの旅館をひとりでとりしきっているということでもある。
マグダレーネはあっけにとられ、その場に立ち尽くしていた。