長崎の水無川神社の縁側で足をばたばたさせ、マグダレーネは過去を思い返していた。

(……結局、あれはなんだったのかな)


 スウェーデン=ノルウェー連合王国の港町のオスロで、彼女は〝幽霊船〟を見た。

 彼女は夜な夜なその〝幽霊船〟の表現しがたい魅力に惹かれ、連日眠りについたまま、港のほうへひきよせられるように歩いていた。夢遊病だ。

 オスロで一二日間それが続いた。周囲から奇異の目を向けられることは、彼女が症状を自覚するうえでむしろ助かることだった。しかし当時より強い恐怖が彼女を襲っていた。

 夢のなかで、彼女は毎日〝オランダ人〟と名乗る何者かの誘いを受けた。

 彼女の夢に登場する〝オランダ人〟はしかばねの姿に船乗りの……おそらく船長の服を着たような姿をしていて、彼女に毎日、こう告げた。

⦅早く……早く……こちらへくるのだ……その岬から海へ身を投じるのだ……死の苦しみは……生の苦しみに比すれば……一瞬のことだ……⦆

 彼女が目を覚ますのは、決まって崖の一歩手前だった。


 あのときの経験で彼女はあのままオスロにいることがおそろしくなり、一三日め、急遽オスロを発ち、アムステルダム行きのオランダ船に乗ることにした。

 問題はそのあとだ。

 船は嵐に見舞われた。アムステルダムに向けて発ったはずのオランダ船は雨風と海流に流されに流され、サハラ砂漠の大西洋沿岸でフランスのメデューズ号と遭遇し救難信号を送ったが、メデューズ号が座礁したことで希望は潰えてしまった。

 メデューズ号はサハラ砂漠に乗り上げたがオランダ船はさらに南方へ流されてしまい、ついに漂着したところは南アフリカの喜望峰という岬だった。

 船員も乗客も、生存者はわずかだった。女性と子どもは優先的に安全を確保されたが、男性の乗客は船を動かすために駆り出されたため数多くが行方不明になった。

 船は沈没し、もはや自力でヨーロッパに戻ることはできない。さいわい喜望峰には船が定期的に来航するようなので、生存者はそれを待つことになった。

 マグダレーネはかつて、オランダ東インド会社はアジアとの航海で、この喜望峰を経由する航路をとるらしいと聞いたことがあった。

 彼女はそのとき、あまりヨーロッパに戻る気がなかった。そこでせっかくなので前向きに捉え、アジア方面の船に乗ることにしたのだ。


 水無川神社で連理は、このマグダレーネと名乗るふしぎな西洋の女の子が数日は長崎で困らないよう、必要なものを聞いて与えた。とは言ってもものというよりは生きるために必要な知識だ。たとえばこのあたりの湧水で飲めるものと飲めないものや、街の代表的な施設、どこに行ってなにをすれば、どんなものが得れるか。

「……繰り返し念を押しますが、わたしはあなたの味方ではありませんよ。最低限自力で生きるために必要なことは教えますが、無償で施しはしません」

 連理は彼女が助けを求めるのであれば助ける心づもりでいたが、そうでないのであれば必要以上に干渉するつもりもなかった。

「さて、わたしはそろそろ旅館に行きますね」

 連理は神社の縁側から立ちあがり、着物を軽くはたき整えて言った。

「まだ仕事がありますから。あなたはどうしますか」

 マグダレーネはぽーっと彼女を見ている。

「レンリ、あたしが密入国者だって知ってるよね!? よくしてくれるのはうれしいけど、あたしを見逃していいわけ? あたし、船から降りるとき役人にいろいろ聞かれて、黙って逃げてきて追われてるって、言ったよね。あたしをかくまったって知られたら、きっときみだってただじゃすまないよ」

「知りませんよ。聞かなかったことにします。神社にはあまりひともいませんし、旅館とも違って営利目的の施設でもありませんから、代金もとりません。お疲れのときは適当に利用してください。不法侵入、という扱いにはなるでしょうから、お上に見つかったときに味方になるとは期待しないでください。ただ、見なかったふりならいつでもできますから」

 ここまで言われると、マグダレーネはさすがに悔しかった。

「あたしはきみを襲った実績があるんだよ。いちどで済むと思う? 今度はきみの寝首をかきに、眠りの深いときを狙うかもしれない」

「そのときはそのとき。また追い返すだけです」

「ずいぶん自信があるんだね」

「……家柄ですから」

「家柄って、なに」

「水無川家はいまでこそ平民に身をやつしていますが、戦国時代には誉れ高い武門だったそうです。それが由来かどうかは知りませんが、水無川の家の娘は、代々武術を修め学識に通ずることがたしなみです。わたしも幼いころから鍛えられてきました。ですから夜襲ならどうぞ、いつでも、お好きなときに。旅館でお待ちしています」

 マグダレーネはここまでこけにされると、かちんとくるものがあった。

「だったらあたしも旅館に連れてって」

「〝三泊四日、金一両〟です」

「えっ?」

 連理は振り返ってわざとらしくお辞儀をして、笑顔で答えた。

「旅館をご利用になるなら松竹梅ございます。どうぞごゆるりとお楽しみ遊ばせ」