スウェーデン=ノルウェー連合王国の港町オスロで、満月の夜、マグダレーネは宿の窓から船着場のほうに、ぼんやりとしたふしぎな光を見た気がした。

 彼女が気になって目を凝らすと、たしかにそれは光っている。蜃気楼のようにかすみがかかっていて、なにかがそのなかで動いている。

(……船……?)

 彼女が見たものは、薄紫色の炎に包まれた船のようなものだ。すくなくとも外観はそう見える。

 彼女はなにか気になって、望遠鏡で船のほうを見る。

 すると。

「――ひ」

 彼女は声を隠せなかった。

 彼女には船に、白骨、人間の骨のようなものがたくさんあるように見えたのだ。

 それにもかかわらず彼女は言いようのない魅力を感じ、釘付けにされてしまった。

「……しかばねが、船を動かしている……」

 それが彼女の率直な感想だった。

 彼女は個室を借りるようなお金の余裕もなく、女性同士の相部屋に泊まっていた。

 窓の外を見つめぼそぼそと不気味なひとりごとをつぶやく彼女を見て、たまたまそこに一緒に泊まっていたゼンタという名の女性が心配そうにたずねた。

「どうしたの?」

 マグダレーネの外見はいまだ一一歳の女の子で、言葉の訛りから北欧の生まれでないとすぐにわかる。そんな子がひとりで、それもぼそぼそと世迷言をこぼしていれば心配するのも当然だろう。

「……あれ、なんだかわかる?」

 彼女は港を指さした。

「あれって?」

「船、船!」

「船ならたくさんあるじゃない」

「ちがう、あの、しかばねが、乗ってる――見て、ほら!」

 彼女は望遠鏡を渡して見せた。

 しかしゼンタにはわからないようだった。

「……どうしたの?」

「こんな夜に、あんな不気味な……幽霊船だよ!」

「……まだ、朝だけど?」

 その言葉で、マグダレーネは我に返った。

 彼女が窓の外を見ると、そこには朝日がさしこむ明るい港と水平線が広がっていた。

 あの〝幽霊船〟も、もう見えなかった。

(白昼夢、かな……あたし、つかれているんだ)


 彼女がオスロの港での買い物中、一六年ぶりにメフィストフェレスが現れた。

⦅おぬしもだいぶ〝彼岸〟に近づいているようだな⦆

 メフィストは黒猫の姿で、彼女の買い物かごのしたを器用にくぐって彼女の横を歩いていた。

⦅なにそれ。初耳だよ⦆

 マグダレーネはもはやしゃべらずともメフィストとは意思の伝達ができるようになっていた。

⦅サンスクリットの言葉だ。この世界を〝此岸〟そうでない世界を〝彼岸〟と言うのだ⦆

⦅……で、あたしがその〝彼岸〟に近づくってことの意味がわからないんだけど⦆

⦅おぬしが見た白昼夢のことだ……死期が近づけば見るものだ⦆

⦅あたしの薬はもう一三日分しか残ってない。そのこと?⦆

⦅いかんな。早くつぎの贄を捧げなければ⦆

⦅言っておくけど、あたしは血液製剤のために人命を犠牲にするつもりはないよ。だからその『贄』って言い方はやめて⦆

⦅おぬしはもうたくさんの犠牲をだしているではないか⦆

 彼女の心臓がずきり、と痛んだ。

 彼女は相手の同意を得ずに、もう何年もたくさんのひとを傷つけてしまった。

 しかし彼女はそのまえに医学を修め、安全な採血の方法を心得ていた。

 彼女は夜な夜な血液を拝借するために出かけたが、一度に一ポンドまでで心肺の活動に支障がでないよう細心の注意を払い、全員に適切な処置を施したのだ。

⦅……もう同意をとるなんてしゃらくさいことはやってられなかった。それでもあたしはだれも犠牲にしてない⦆

 メフィストはなにも答えなかった。

⦅それよりだいぶ久しぶりだね。どうして一六年も姿を見せなかったの?⦆

⦅わしは秘薬の製法をおぬしに授け、生きる選択肢を与えただけだ。手取り足取り面倒を見るつもりはない⦆

⦅あっそ。そういうのを〝悪魔〟っていうんだよ⦆

⦅そうかもしれぬな⦆

⦅じゃ、質問を変えるね。なんでいまになって急に姿を見せたの?⦆

⦅……二四年だ⦆

⦅なんのこと?⦆

⦅ファウスト博士のときは二四年だった⦆

⦅……よくわからない。なんの数字?⦆

⦅さて……まだ話していないことがあるな⦆

⦅聞いてないけど、話したいならどうぞ⦆

⦅ファウスト博士にとってわしは成功作だった。不老不死のホムンクルスだ。つぎに博士はこの研究成果をもとに人間を、わしのような不老不死の存在に変えようと考えた⦆

 マグダレーネはそれを聞いていて、なにも感じないわけではなかった。

 当事者意識、利害関係人というものもあったし、単純にファウスト博士の思考を追うといたたまれないきもちにもなったのだ。

 だから彼女は答えた。

⦅悲しいお話だったんだね⦆