一八一六年、夏。スイス、ディオダティ荘。

 イギリスの詩人パーシー・シェリーはメアリー・ゴドウィンと恋に落ちたが、メアリーの父親がふたりの関係を許さなかったので駆け落ちすることを決め、現在スイスに別荘を借りているジョージ・バイロン男爵を頼った。このとき優秀な医学生でバイロンの主治医のジョン・ポリドリと、メアリーの妹のクレアの計五人が集まった。

 一八一六年は〝夏のない年〟と呼ばれるほどの冷夏だった。さらに五人がディオダティ荘に集まった日は、強い風と激しい雨、そしておそろしい雷を伴う嵐で、外出することもままならなかった。

 メアリーは別荘の窓からそとを見て、まだ昼だというのに雷雲が陽の光を遮り、なにか不気味なものを感じた。さらにバイロン卿が怪談を話すものだから、感受性豊かな彼女はそれだけでくらっときてしまった。

 とはいえバイロン卿とメアリーは興味や関心のある分野がやや重なっていて気が合い、浅いテーブルのまえで、ソファに腰かけワインを開けて科学哲学の談義にふけっていた。

 メアリーがバイロン卿にたずねた。

「ガルヴァーニ電気というものをご存じですか」

 バイロン卿は答えた。

「もちろん。ガルヴァーニ医師の実験で、死んだカエルに電気を流すと筋肉が動くというやつだろ?」

「はい。その、これは仮の話ですが……人間も、動くのでしょうか」

 バイロン卿は目を丸くした。

 かれはイギリスでいろいろあって荒れていた。ワインをあおり酔っているのは、それを忘れるためでもあった。

「はは……そんなことは思っても言うものじゃない」

「はい、ただ、もしこのまま科学が発展したら……そういう可能性ってあるのかなって」

 バイロン卿は空いたグラスをテーブルに置いて真剣に答えた。

「そんなことを言ったら周囲にどんな目で見られると思う? 死者の蘇生、肉体の再生、あるいは死者が死んだままに活動すること、なんてのはな……しかし……」

 メアリーは息を呑む。かれの旅先での体験談は、うそともほんとうともわからない。

 バイロン卿は静かに言った。

「経験から言えば、否定できない」

「経験って、どういうことですか」

 するとかれはグラスにワインをそそぎ、ソファに深く腰かけて足を組み、語り始めた。

「……あれはもう五、六年まえのことだ……ぼくは地中海の……そう、ちょうどギリシアのあたりを旅していた。当時あのあたりには〝吸血姫〟という噂があった……」

 メアリーはかれの言葉に、熱心に耳を傾けていた。

 バイロン卿は当時の経験を事細かに話した。

 このときバイロンの主治医のポリドリは、かれの神妙な語りを聞いてなにか思うものがあり、言った。

「バイロン卿のおっしゃるその〝吸血姫〟という女性の特徴は、おおよそですが医学的に説明できます。もちろん、医師としてはきちんと本人を直接診察してみないことには確実なことは言えません。ただ、あくまで〝神秘的〟な解釈をせずとも説明できるという作品制作をするうえでの参考として、と念を押したうえでの世迷言で、あまり真に受けないではいただきたいのですが……」

 メアリーは興味津々だった。

「まず大きな特徴として挙げられました、特定のなにかがきっかけで性格が豹変する――たとえば血を目にするなど――これは彼女の個人的な経験に由来して起こる防衛機制だと考えられます。つぎにときおり見せる夜間の奇怪な行動。これは精神的な負荷などが原因で発症する夢遊病というものです」

 ポリドリはそのような分野で論文を書いたことのある、専門家でもあった。

「もうひとつ。彼女といわゆる〝吸血姫の仕業〟とされる事件の数々の因果関係についてですが、話を聞いたかぎりだと証拠が不足しているようで、憶測の域をでません。偶然、と断定することはできませんが、すくなくとも彼女を〝魔術的〟な存在だと考えることは控えたほうがよいでしょう」


 時代はまたたくまに流れ、一八一五年にフランス帝国が崩壊し、マグダレーネは比較的自由に動けるようになった。しかし〝吸血姫〟ならぬ〝吸血鬼〟の噂は根強く残り、そのときはすでに彼女と関連づけて語られることもなくなっていたが、彼女はどこへ行っても居心地が悪い思いをした。

 彼女は一度ウィーンに戻ったが、そこで見たものは彼女の故郷、かつての〝音楽の都〟とは違っていた。彼女の家はなくなっていて、家族と再会することも、ついぞなかった。生きているかどうかさえわからなかったのだ。

 それに彼女はこの数年の経験で、たとえ生きていても、もう顔向けができないと思っていた。

 彼女は容姿こそ幼いころのままだったが、精神的には成長していた。当時の両親や友人たちの立場になって考えるとかれらの行動も理解できるような気もしていた。

 一方で当時の〝裏切られた〟と感じ、故郷を捨て逃げてしまった幼稚な自身が恨めしく思えたし、かれらが悪意をもっていなかったのだとしても、誤解とはいえ結果的にかれらの好意を反故にしてしまったことになる。

 そう思うとどっちに転んでもいまさら許されるとも思えず、顔を会わせたときどんなに罵られるかと思うとおそろしくて、いまさら帰る勇気もでなかった。

 彼女は大陸を離れ、イギリスかスカンディナヴィアで暮らそうと考えた。

 彼女はオランダのアムステルダムで船に乗り、一八一六年、スウェーデン=ノルウェー連合王国、オスロに到着した。

 港で彼女は宿をとり、ひとまず数泊してからつぎの予定を考えるつもりだった。彼女の薬の予備はもう二週間もなく、つぎに月が満ちるまでに、どうにか一〇ポンドもの血液をこしらえなければならなかったのだ。