さてここで物語はすこし、マグダレーネと連理が出会うおよそ一七年前にさかのぼる。
一八〇〇年、メフィストは残っている不老不死の霊薬を彼女に与え、そして、その製法を彼女に教えた。
⦅博士の秘薬は万病を治癒し、老いを遅らせる。いまある秘薬はおぬしの体重であれば、現にあるものだけでおよそ七年はもつだろう。しかしそれより将来は保証できぬ。製法を教えよう。それによって秘薬をつくりつづけ、それを服用しつづけなければ、秘薬の効用が失われたそのとき、おぬしの身体はまたたくまに朽ち、崩れて灰になるだろう⦆
「……この薬があれば七年は生きられる。なければ、もう一年ももたない」
マグダレーネは齢一一歳でこれほどの決断を迫られていた。
またメフィストはいくつかの注意事項を説明した。
⦅秘薬を服用しても、激しい運動はできるだけ避け、なるべく安静にすることだ。陽の光を浴びたり水中で泳いだりすることで代謝が活発になると身体に障る⦆
メフィストの言葉がマグダレーネの耳には入らなかった。もっと強烈なものを目のまえにしていたからだ。
「調剤のための材料……」
彼女はその薬の製法が記された魔術的な書物を読んで吐き気を催した。
⦅嫌か⦆
「だって、一〇ポンドの新鮮な人間の血液をどう集めろっていうの!?」
⦅たかだか大人ひとり分だろう⦆
「知ってる? 一〇ポンドも急に血を抜かれたら、人間は死んじゃうんだからね!」
⦅同一人物の血液である必要はない⦆
「……循環器系の活動に深刻な影響を与えずに、ひとりの人間から安全に採れる血液は、せいぜい一ポンドが限度。しかも血液というものはひとたび大気に触れるとあっという間に凝固してしまう。一〇人の、それもこの薬が必要な理由に理解のある血液提供者を同時に集めなければならないなんて……不可能だよ」
さらに彼女は悲惨な記述を目にする。
「これでつくれる薬が二八日分? 二八日にいちど一〇ポンドの血液を集めないと生きていけないなんて……代償としては大きすぎるよ」
メフィストフェレスのもたらした秘薬によって彼女はみるみるうちに回復した。しかしあるいはもちろんと言うべきか、それは暗雲たちこめる未来の始まりでもあった。
マグダレーネは最初に、一ポンドの血液でほかの材料の比率もすべて一〇分の一にして二、三日分の秘薬の精錬が可能かどうかを試した。しかしそれはうまくいかず、ただ単に比率を変えただけでどうにかできるほど単純なものではなかった。それは彼女にとって、どうしても血液が凝固するまえに一〇ポンドものそれを同時に集めるために信頼のおける協力者が必要なことを意味した。
マグダレーネは家族に事情を話した。メフィストとの約束で、秘薬の製法は秘伝なので口が裂けてもしゃべらないように念を押されていた。それでも両親、そして彼女の主治医は理解のあるひとで、彼女の話すことは彼女自身が回復していることを見れば明らかだと信じ、彼女のために血液を集めてくれた。
当時の先進医学を修めた者のあいだでは、献血や輸血といった医療法が理論的には可能だということは知られていた。彼女の主治医が理解を示した理由の一端はそれだった。
それでも実際に成功した例も、血液を長期間保存する技術もなかった。
目的は異なるが、瀉血のように医療目的で医師が血液を体外に排出すること自体は珍しいことではなかった。それは体内の老廃物を血液と一緒に除去するというもので、その血液を製薬に利用するといったものではなかったが、ともかく、瀉血を装えば周囲に怪しまれずに活動することが可能で彼女にとっては都合がよかった。
ただし、〝血を抜くこと〟は医療行為として一般に受け入れられていたが〝血を集めること〟はそうではない。有害物質を体内から追い出すのが目的の行為である以上、それを利用してなにかをつくることは不気味なことだ。もし体内の有害物質を〝悪魔〟の概念と関連づけられれば、それはまさに〝魔術的〟な行為で、断じて知られてはならなかった。
もちろん関係者が秘密裏に血液を集めても血液の提供者が秘密を守るとはかぎらない。
マグダレーネは定期的に、一〇名前後の血液の提供者の血液をすこしずつもらって秘薬を精錬した。
それが人々にどのような印象を与えるかは、想像に難くない。
ウィーンの街では最初〝血液を集め薬をつくる魔女〟の噂がたち、次第にそれはかたちを変えて、生き血をすする〝吸血姫〟の伝説として広まっていた。
最初の数年が彼女の幸せの絶頂期だった。
薬はいちど精錬してしまえばかなり長持ちして、彼女は向こう一〇年は心配しなくても済みそうだった。
そして、運命の一八〇六年が訪れる。
ナポレオン戦争の余波がついにウィーンを襲った。神聖ローマ帝国は滅び、ウィーンの家族は散り散りになり、彼女はフランス帝国軍の捕虜となった。
ウィーンがフランス帝国軍に占領されても多くの市民の安全は保障されていた。しかしマグダレーネだけは違った。彼女が〝ウィーンの吸血姫〟だということが明るみになってしまったためだ。
戦争に対する不安と恐怖がもともと〝吸血姫〟をおそれる人々のきもちを増幅させた。彼女が悪魔と契約している魔女として裁判が開かれ、彼女は弁護人を立てることもできずに処刑が決定し、投獄された。
連行されるとき彼女が見た周囲の様子が、彼女の脳裏に、強烈に焼きついた。
助けを求める彼女から目をそらし、知らぬ存ぜぬを貫く友人たち。
かつて親しかった医師も、家族でさえ、彼女に手を差し伸べることはなかった。
その場にいた全員が不幸と自責の念と葛藤を感じていた。ここで言葉をかければ同罪に問われるかもしれない。彼女に与せば処罰されるのは自身だけではないかもしれない。
彼女の両親も必死に堪えていた。衝動的になっても好転するとはかぎらない。それより万が一にでも彼女が釈放されたときのために、帰るべき場所を残してやらねばと。
この判決は裁判官にとっても不本意だった。実際『魔女裁判』と呼ばれるものはすでに過去のものであるというのが、この時代の有識者の認識だった。しかし庶民にはそうではなく、また占領後間もない地域でもあり、暴動に発展する可能性もあることから危険因子を早期に摘みたいというフランス帝国軍の圧力もあった。そして、そうしなければ彼女をおそれた市民による私刑と拷問が行われるおそれもあり、彼女を保護するという意味でも必要な、苦渋の決断だった。
人々は呪縛に囚われ、おのおのが不服を感じつつとも動けない。
もちろんその意図や背景が伝わらなければ、マグダレーネにとっては故郷のみんなも、帝国軍も、周囲のすべてが敵に思えるようになってしまうものだ。
彼女はじめじめと湿っぽく暗い地下の檻のなかで、つぎに太陽を見るのは処刑の日で、その日までに火刑台で並べる自白と謝罪の言葉を法的な効力のある文章として残し、かつ当日に一字一句まちがえずに述べなければ家族と友人たちまで同罪として処理するという脅迫を受けながら、だれとも連絡をとることもできずに日々筆をとってむせび泣くような毎日を、二週間ほど送った。
ところが一五日めに親しい友人たちの計らいで、彼女は牢獄から逃れることができた。もちろんその事実はすぐに明るみになり、彼女はあっという間に指名手配されてしまう。
結果として彼女はフランス帝国――つまり、ヨーロッパのほとんどの地域――で生きることは、もはやできなくなった。
彼女はヨーロッパのほとんど全土で追われる身となった。ただそれ以上に彼女は、もう故郷のみんなが信頼できなくなっていた。
(どこでもいい。どこでもいいから、どこか遠くの異国で暮らしたい)
こうして彼女はひとり孤独にフランス帝国からの亡命を選んだのだ。
一八一〇年、ギリシア。
当時ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。マグダレーネは素性を隠し、ギリシアで一一歳の少女として生活していた。
マグダレーネは順調に成長していれば、もう二一歳の立派な女性の姿になっているはずの年齢だった。しかし彼女はメフィストフェレスにもらった不老不死の霊薬のために老化とともに成長が停止し、ずっと一一歳の少女のままの姿をしていた。
彼女は悩んだ挙句、この四年間は医学を修める道を選んだ。彼女は大学を卒業して医師になり、表向きにはギリシアで女医として活動していた。
(壊血病は食事で対策できる。人間以外の血液や、ひょっとしたらなにか似た成分のもので代用できるかもしれない)
しかし彼女の研究は捗々しくなかった。
彼女は羊などの血液で代用できるかとか、材料の成分は変えずに比率を調整して一度の調剤に要する血液量を減らすことができないかを考え、四年間欠かすことなく実験して、成否はどうあれ、結果をすべて研究日誌に書き留めた。
気づけば彼女の日誌は一〇〇〇ページをゆうに超えるものとなっていた。
そして、そのどれもがことごとく失敗に終わった、屈辱を記すものだった。
実験後に彼女が筆をとるとき、決まって彼女の指先はかたかたと震え、自然とあふれる涙を自覚することもできず、こぼれおちた雫がインクをにじませて、初めて自身が泣いていることに気づくありさまだった。
そしてそれを自覚すると、あっという間に感情が内側の深いところから押し寄せてきて、洪水のように抗うことのできない悲しみと不安が彼女の心を覆いつくすのだ。
四年もそんなことを続けていると彼女は希望をほとんど失ってしまい、諦めつつあった。
実験しようにも思いつくことはあらかた試してしまったし、もはや彼女は、なにを実験すればよいのかさえわからなくなっていた。
彼女がヨーロッパの各地を旅しているイギリスの詩人、バイロン男爵と出会ったのは、このころだった。
ジョージ・バイロン、第六代バイロン男爵、二二歳。
マグダレーネはある日、ダーダネルス海峡というところを観光していた。
陽の光が強い夏の日で、彼女は日傘をさして海岸線を歩いていた。
この海峡の名前に限らないことだが、古代ギリシアの神話には地中海周辺の地名がよく登場する。二〇〇〇年、三〇〇〇年以上まえにもこの地を踏んだ人々がいるのだ。
神話は創作もあれば、史実もある。すべてがほんとうではない。しかし、すべてがうそでもない。文章にちりばめられた単語をひとつひとつ拾い集めるとひとつの歴史が浮かびあがってくる。
それまで創作だとみなされていた記述が熱心な探検家の発掘調査によって、ほんとうに遺跡が発見されてしまうこともある。
それは彼女をふしぎなきもちにさせた。
(歴史は続いていて、世界は繋がっているんだね)
そんなとき、水平線のほうを見てひとり孤独にうたっている吟遊詩人がいたのだ。
異国の言葉だったので彼女にはわからなかったが、彼女はきっと英語だろうと思った。それに顔立ちもどことなくイギリス人のように見えた。
イギリスからはるばるこんなところまできてだれにでもなく海へ向かってうたっているかれが、彼女にはなにか素敵な存在に思えた。
「なにをうたっているの?」
彼女はドイツ語で話しかけた。バイロン卿は彼女の言葉がわかるようで、彼女を一瞥し答えた。
「自由と愛、そして人生における驚きの日々を愛すると」
謎めいた返答だった。しかしそれは人間の情緒、ひいては人生そのものの意義を的確に表す言葉にも、彼女には思えた。
「……ロマン主義だね」
バイロン卿は海を見つめてつぶやくように言った。
「ぼくは人生におけるほんとうの喜びというものを知りたいんだ」
「どうして?」
「イギリスではどんどん工場が増えて、人間はお役御免さ。どうなったと思う? 人間の生活は楽にはならなかった。機械の所有者に富が集中したんだ。もし仮に、人間の仕事のすべてを機械がこなす時代が訪れたとして、どうなると思う?」
マグダレーネは相槌を打つように答えた。
「わからない」
「そうだ……ぼくにもわからない。きっと世界中探してもそんなことを的確に予測できる人間はいないだろうね。ただぼくは、そういう時代でも人間に残されているような喜びを……人間の情緒というものを知りたいんだ」
マグダレーネはほかに行くあてもないし、なにより成長しないことが原因で、一ヶ所にとどまるという生き方がもはや望めなかった。はたから見れば育ち盛りの女の子で、数年もすれば幼い姿のままの彼女を怪しむ人間が必ず現れる。
それ以上に薬の予備が尽きかけていて、なりふりまかっていられなかった。
彼女が新天地で理解があり、信頼のおける友人を見つけるだけで数ヶ月、ときには数年を要した。薬のストックは減るばかりで、彼女が生きるためには一生を添い遂げる伴侶を見つけるか、さもなくば、だれかを殺害して血液を奪うしかなかった。
彼女はそれだけは手を染めないと決めていた。もしその必要があるときがくれば、そのときは潔く死のうと。
彼女がバイロン卿と出会ったのは、そんなぎりぎりの時期だった。
バイロン卿は理解のある人物で彼女が一緒に旅をすることを望むと、彼女をヨーロッパのいろいろなところへ連れて旅をした。
とはいえそれもわずかの期間の話で、彼女が秘密を打ち明けるかどうか悩んでぐずぐずしているうちに、時間ばかりが経ってしまった。
彼女はついに、バイロン卿に秘密を打ち明けることなくかれのもとを静かに去った。
彼女はかれと一年ほど一緒に旅をし、親密になって、悟ったのだ。
(もしかれに秘密を話してあたしが捕まったら、どうなる? あたしだけじゃない。かれも罪に問われるかもしれない……それだけは、ぜったいに嫌)
こうして彼女はバイロン卿とのもとを離れた。
(あたしはだれにも頼らない。あたしはだれも信じない。あたしはだれも信頼しない! あたしはひとりで生きる。だれの手も借りず、だれの手も汚さず、だれにも迷惑をかけずに……)