連理は山道で出会ったふしぎな女の子を連れて、水無川神社でひと息ついていた。

 祭事を除けば神社に参拝客が訪れることはほとんどないし、連理の家族も旅館のほうにいる。神社の管理は名実ともに連理ひとりで行っていて、ほとんど彼女の別荘に近い存在になっている。そう言えば聞こえはいいものの、実際のところ老朽化した神社を修繕するだけでも大変で、くつろごうにも床が抜けない特殊な歩法を覚えるばかり。近代的な施設のひとつもないこの古い建物に住んでもろくなこともない。

 それでもきれいな湧水や小さな滝があったり、陽の光や雨風を多少しのげる木々の傘のもとで夏は涼しく、また冬には暖かい空気を逃がさない天然の構造になっていたりして、彼女がひとり静かに過ごしたいときにはそれなりに重宝する場所だった。曲がりなりにも人間が居住することを前提に設計されている以上路上や公園よりはだいぶ過ごしやすく、ひとときを過ごすためであれば、地球上のどこを探してもここよりもよい環境を見つけることは難しいだろう。

 そしてそれは密入国者をかくまうための条件を満たしていた。

 得体の知れない西洋の女の子は屋根のしたに入ると、日傘を閉じて神社の縁側に腰かけ連理にお礼をした。

「ありがとう、えっと……」

「そういえば自己紹介がまだでしたね。連理と言います」

「そうだね。初めまして、レンリ。あたしはマグダレーネ」

 彼女が笑ったとき、鋭くとがった八重歯が見えた。連理はそれが特徴的だなと思いつつも、あまり気に留めなかった。

「名字はバウムガルテン。マグダレーネ・バウムガルテンって言うの。きみの名字は?」

 連理はつん、と答えた。

「教えません」

「どうして。知られたらまずいことでもあるの?」

「あのですね、名字帯刀は武士の特権。平民はあってもおおやけの場で、みだりに名乗るものではありません」

 マグダレーネは初めて耳にする西洋とは大きく違った文化に刺激を感じていた。

「どうして!? 武器は危ないからわかるけど、名字も名乗っちゃいけないの!? その名字すら他人に教えない秘密主義的なほど謙虚な姿勢が奥ゆかしさというやつなの!?

「いや、違うと思いますけど」

 連理はマグダレーネの剣幕にあきれ気味で、彼女が変な誤解をしないように答えた。

「名乗っちゃいけないというよりも、平民にわざと名乗らせたり帯刀させたりしてお金をとる口実をつくるような、悪い役人がいるから警戒してるんですよ」

 マグダレーネは期待はずれの世俗的な返答にがっかりした。

「名字に課税されるの? 切実なんだね……」

「税金ともまた違うと思いますが……まあ、平民でもお金を払って名字を名乗ったり帯刀することはできます。ただ逆にそれを利用して、あえて名乗らせることでですね……」

 それより連理は彼女の名前を聞いて、やっぱり、と思った。

(マグダレーネ。独語圏の名前。知らないと思っているんでしょうか)

 連理が疑わしそうにしていると、それに気づいたのか、マグダレーネのほうから。

「あたしのこと、変だと思ってるみたいだね」

「そりゃあそうでしょう。幕府のことをなにも知らないみたいですし、ただでさえ西洋の婦女子が現れることは珍しいんです。わたしじゃなくても、あなたが密入国者だって簡単にわかります」

「げ」

 マグダレーネはうろたえた。

「港で検問がありませんでしたか?」

 マグダレーネは観念したように答えた。

「……あったよ」

「幕府の役人から、逃げてきたんですね」

 彼女は静かに頷いた。

「追われてるの。捕まったら……」

「強制送還、でしょうね」

 連理が重ねるように言った。

 しばらくの沈黙。

 お互いに、相手にどんな言葉をかければよいかわからなかった。

 ほどなくしてマグダレーネが口を開いた。

「どうしてあたしがオランダからこんなところまでくる羽目になったのか、知りたい?」

 連理はすこし興味があった。というよりも、彼女がいったいぜんたいなんなのか、幕府へ通報すべきなのかどうかまだ迷っていて、その判断材料がほしかったのだ。

 彼女はこのマグダレーネと名乗る少女が売られたなんて話はつゆとも信じていないが、それでもなにか理由はあると思っていたし、その理由によっては、彼女の味方をするのも悪くないかなとは思っていた。

 とはいえそれはあくまでマグダレーネが助けを求めてきた場合の話だ。

 連理はぶっきらぼうに答えた。

「べつに」

「魔女裁判って知ってる?」

 連理はそれを聞いて、思ったより重い話が展開されそうだぞと身構えた。

「ええ」

「……あたし、いろいろあってね……とにかく、もう邦にいられなくなったの」

「……」

 連理は彼女がうそをついていることは確信していたが、あまり深掘りするのもよくないかなというきもちになった。

 もし彼女にほんとうに悪気がないのだとすれば、率直に聞いてしまったほうがいい。

「両親のいざこざで売られたっていうのはうそですか?」

「へ!?

「なにか理由があるというのはわかります。そしてそれを話しにくいってことも……」

「あ、あはは……」

 マグダレーネは指をつんつんして、目をうろうろさせている。

「……ただ、これは老婆心からの助言ですが、ひとに助けを求めるならまずは正直になることです。なにかを隠しているということは必ず相手に伝わりますし、それでは信頼関係を築けません。邦にも追われ、きっと他人を信頼できない状態にあるのでしょう。それにここはあなたにとって異国の地ですから、仕方ありません。でもだからといって、暴力に訴えて力づくでなんとかしたり、他者をだまして利用ばかりしていると信頼を失います。必ずしもすべてを告白する必要はありませんが……どうですか?」

 連理の言葉に、マグダレーネは少なからず心を動かされるものがあったようだ。彼女は言葉を失い、連理の銀色の瞳に、しばらく釘付けになっていた。

「……うん。ありがとう、レンリ。目が覚めたよ。両親のいざこざで売られたって話は、うそ。いろいろあったのはほんとうだけど……ぜんぶ、あたしの責任だった」

「責任をひとりで背負い込む傾向がありますね」

 連理の指摘にマグダレーネはまたも肝を抜かれた。

「レンリはひょっとして心理学のお医者さん?」

「いいえ、なぜそう思うのでしょう」

「……理由はないよ。ただ気にしてたことをずばり言いあてられちゃったから」

「まあ、それが仕事みたいなところがありますから」

「どんなお仕事をしてるの?」

「この神社の巫女と、それにすこし歩いたところに旅館があって、若女将をしています」

「ミコ?」

「蘭語ではなんて言えばいいのかわかりませんが……修道女、かな」

「なるほど。みんなの悩みを聞いたり、いろいろな慈善事業に尽くしているんだね」

「いえ、西洋の修道女とはまた別種の……祈祷師のほうが近いかもしれません」

「へえ」

「それが仕事みたいなところというのはむしろ若女将のほうですね。いろいろなお客さまのお話を聞いて、旅館での数日を満喫していただくための手助けをすることが仕事です」

「大変なの? 変なひととか厄介なひとも、きっと多いよね」

「否定はしませんが、それでも、どんなお客さまにも旅館にいらっしゃった以上楽しんでもらうために精一杯のことをします」

 マグダレーネはそれを聞いて、かつての自身を重ねてしまい感情移入してしまった気がした。

「……愛想笑いみたいな〝仮面づくり〟って、きっとつらいんだろうね」

「いえ」

 だからマグダレーネはその返事に驚いた。

「そうなの?」

「楽しくないときに楽しいふりをしても、やっぱり相手に伝わりますよ。そういうふうに〝あわせられてるな〟って感じると、やっぱりひとの心は離れていくものです。なにより自分自身のためになりません」

 彼女の言葉が心の琴線に触れ、マグダレーネは彼女の瞳から目を離せなかった。

「他者をだまさないことも難しいですが、自分をだまさないことはより難しい。意識的についた自分へのうそはいずれ無意識的に自分をだまし、傷つけるようになります。さっきも言ったように、まずは正直になることです。どんなときでも、それは第一の原則です」