連理が長崎の市場で買い物を済ませ、太陽に空気が暖められてきた昼前に、光を避けるために笠を頭にかぶりヤフトヘルトに荷車をひかせ山道を歩いていると、いきなり荷車の車輪がひとつはずれ、坂を転がり崖から森のなかに真っ逆さまに落ちてしまった。
連理が文字通りあっという間もなく目を離した瞬間に荷車が音を立ててその場に崩れ、食材のいろいろが雪崩のようにつぎつぎと転がってしまう。
(……最悪……)
連理は目のまえに広がる野菜や果実の数々を、呆然と見つめていた。
ヤフトヘルトは荷車のなかにあるものは食べないように訓練されているが、道に落ちたものは食べてもよいと思っているようで、くんくんとにおいをかいだりしている。
不幸中の幸いは、坂の傾斜がそれほどでもなくほとんどのものが止まってくれたこと、石畳で舗装された道で泥だらけになったりしなかったこと、そして、万が一のため替えの車輪を荷車の後部にいつも備えていることだった。
彼女が思わず転がる蜜柑を掴もうとしゃがむと、ずき、と足首のあたりが痛んだ。
彼女が裾を軽くあげて確認するとふくらはぎが擦れて血が流れていた。傷は軽いし痛みもそれほどでもないが、変なところを切ったらしく流れる血の量はやたらに多かった。
彼女はため息をつき、すこし歩いた先にきれいな水の流れる手水舎があることを知っていたので、荷車をそこに置いて、先に傷の処置をすることにした。このあたりにはあまりひとも通らないし、盗むには量が多すぎるので彼女はちょっとくらい目を離しても大丈夫だろうと判断した。
もともとこのあたりの手水舎は水無川神社の参拝客が身体を清めるためのもの。彼女はそこで傷を洗い、手拭を水に濡らしてふくらはぎに巻いた。ヤフトヘルトが彼女についてきて、心配そうに彼女にすり寄っていた。
それから彼女はヤフトヘルトを連れて荷車のあるところまで戻り惨憺たる現実に向きなおる。
彼女は着物の帯をすこしゆるめた。周囲に人目もない。彼女の経験上、こういったとき拾い集めるのはそんなに楽ではない。重い野菜もあるし、なにより数が多い。腰を据えて作業しなければならない。
しかしそんな悠長なことも言ってられないようだった。
荷車の陰に一瞬だけ人影が見えた。
(――まさか――)
連理は警戒した。野盗に襲われた経験は初めてではない。
もちろんだれかがそこにいるとしても盗賊とはかぎらないが、襲われてから警戒しても遅いのだ。
彼女は『気づいたこと』に気づかれないよう、こっそりと果物を拾うようにしゃがみ、大きく足を開いて着物の裾をゆるめた。さらに彼女は袖に手を隠し、いつも着物のしたに忍ばせている脇差を手首側の腕のうえをすべらせ、すとんと手のひらに落として臨戦態勢に入った。
人間の警戒心というものはどうぶつには伝わるのだろうか。ヤフトヘルトがいななき、暴れて走り距離をとり、すこし離れた場所から荷車のほうを警戒した。
連理はヤフトヘルトの考えていることがすべてわかるわけではないが、小さなころからこうも長く一緒に暮らしていればわかることもある。
(……いる!)
彼女はあたりを見渡した。このあたりに大人が身を隠せる場所はこの荷車しかない。
ほかに視界を遮るものがあるとすれば子どもの背丈ほどのいくつかの岩だが『大人』が身を隠すには小さすぎる。
彼女はそろりと立って、荷車の裏を見た。
(……いない……?)
彼女は拍子抜けしてしまった。
そのときだった。
彼女の背中から覆いかぶさるさるように『子ども』がのしかかってきたのだ。連理は謎の子どもが一気に飛びかかってきてあえなく押し倒されてしまう。
(――子ども!? ――っ)
連理は痛みにあえいだ。その子どもは小さなあごで彼女の首に噛みつき――噛みちぎる強さで、彼女の骨から肉を引きはがそうとした。
それで彼女はこの子どもが『本気』で襲ってきているのだとわかり、自衛のため、彼女も全力で戦うことを決心した。
「――この――」
奇襲攻撃によって連理は不利な状況に立たされたが、それでも大人の連理との筋力の差は大きかった。彼女が力に任せて立ちあがり子どもを背後の岩壁にぶつけると、子どもはあえなく口を離す。
さらに連理はその子が地に足をつけるよりも早く、振り向きざまに、その子の右手首を左手で掴んで内側に捻り身体を一回転させ、その子の右腕を背中側で固め岩壁に押しつけ一瞬の手際で自由を奪ったうえで、脇差をそのか細いのどもとに添えてみせた。
連理はいきなり襲われたこともあってやや感情が昂っていたが、その子の姿を見ると、みるみるうちに冷静になり、血の気を失ってさーっとなってしまった。
「……女の子……?」
彼女は子どもに襲われた経験はない。ましてや女の子になんて。それだけではない。
彼女の瞳の色は赤く、肩ほどの長さで揺れるやや内側にカールのかかった髪は、太陽光に影響されているのか暖かみのある金色に見える。高い鼻とくぼんだ目元にはくっきりと影ができていて彫りが深い印象がある。肩の部分がふくらみ足元の裾がゆらゆらと揺れる珍しい着物は、彼女が読んだことのある西洋の書物によれば、フランスの帝政様式の婦人衣装でパフスリーブとかエンパイア・スカートと言うらしい。
連理は年齢や性別、国籍で相手のことを判断したりはしない。しかしこの鎖国下の日本で外国の小さな女の子を見かけるということ自体が異常事態だ。亡命かあるいは人身売買か、とにかく襲ってきたことになにかただならぬ事情がありそうだと、連理は感じた。
連理はオランダ語でたずねた。
「どこの子?」
すると少女は敏感に反応した。
「オランダの言葉だね。わかるの?」
彼女もオランダ語がわかるようだったが、その言葉には連理の聞きなれない独特の訛りがあった。
(これは独語の発音)
連理はむかし、ドイツ出身の人物の会話を聞いたことがあった。
彼女は質問に答えた。
「はい、蘭語はわかります」
「……きみは、あたしを連れ戻しにきたわけではないんだ」
「なんのことですか?」
「ごめんなさい。こんなところに連れてこられてこわかったんだよ。なんとか逃げないとこわいひとたちがやってきて、また船のなかで檻にいれられてひどいことをされるの」
少女の演技っぽさを、連理は持ち前の〝直観〟で感じ取った。
(西洋における奴隷貿易の歴史は知っています。でも、うそっぽい。とっさにこんな言葉がでてくるでしょうか? まるでこんなときのために練習してきました、って感じ。奴隷より間者だっていうほうがまだ納得できます。でも、きっとこの子はもうそれで突き通すつもりなんでしょう。だったら……)
彼女はうそをかぎ分けるための質問をした。
「あなたも蘭語がわかるんですね。和蘭の出身ですか?」
少女は目を輝かせた。
「うん、そうだよ。こんなところで話の通じる相手に会えてうれしい」
連理はそれで彼女が〝うそ〟をついている確信をした。
「両親のいざこざで売られて、このままだと一生、不本意な人生を送らなければならないところだったんだよ……わかって」
「じゃあ、わたしを襲ったのはわたしがあなたを船に連れ戻そうとすると思ったから?」
「うん」
「わたしも突然襲われて驚きました。悲しい誤解なら放します。あなたは、もうわたしを攻撃しないと理解してかまいませんね?」
少女の唇の端がすこしもちあがった。
「もちろん。約束する。だから……放して」
連理はなにかあやしいものを感じたが、すくなくともこれ以上この子が襲ってくることはないと判断してよいと考えた。もしほんとうのことを言っているならよいし、もしうそをついていても〝うその一貫性〟を保つために、うそつきは約束を守らざるを得ないからだ。
連理は脇差を戻し、警戒は解かずに、彼女を自由にした。
そのとき彼女は、女の子に噛まれた部分がずきりと痛み始めた。
よく見れば首筋からけっこうな量の血がだらだらと流れている。
傷はそこまで深くはないものの、かなり強く噛まれたようだ。とはいえ彼女がとっさのときに人体の急所を守る姿勢をとるくせをつけていたので噛まれたのは首の柔らかい部分ではなくうなじに近い骨と筋肉の集まった硬い部分だった。結果、太い血管を傷つけずに致命傷を避けることができた。
(でも……あの子、ほんとにわたしのことを一撃で……)
連理はふたたび近くにある手水舎に行き、軽く傷口を洗い教科書通りの毒抜きをして、手拭を首回りに巻き止血をした。相手が人間とはいえ噛まれたところは入念に処置をしておかないと、そこから菌が入って大事に至ることもある。
そのとき、彼女はふしぎなことに気づいた。
歯型が、妙なかたちをしているのだ。
(……ほかの部分はそうでもないのに、八重歯の部分だけ目立ってる……?)