連理はおそれていた。今朝、マグダレーネと出会ってからたった一日も経たぬうちに、ここまでの災難がつぎつぎと起き、挙句の果てには月のかげる夜になって、九人の娘から血を抜くという不可解な行動をとるとなると、ひょっとしたら彼女がひとにあらざる存在なのではないかと、考えを巡らせ始めていたのだ。
連理は離れの本棟、先祖の霊が祀られている宮に向かい、大切に納められている古い弓のまえでひざまずき、目をつむって祈りを捧げた。
「ご先祖さま、わたしはいま、底知れぬ何者かに仇なされています。わたしには、彼女はひとの子に思えるし、そう信じています。でも、ひょっとしたら……彼女が妖に類する存在なのではないかと、節々によぎるときがあったのです。それはひとには〝不可知〟の領域の話なのかもしれません。〝不可知〟なことは確かめようがない。となればあれこれ思索したり、こうにちがいないと決めつけてかかるよりは、いずれにせよ対応できる万全の備えをすることがわたしの性分です。あいにく妖に対する方策など、巫女としての祈祷くらいしか思い浮かばないのですが……それをしてあとで彼女が妖でないとわかったところで、わたしがどんな損をすることがあるでしょう。わたしの〝科学的〟な理性がこの行為に対する無意味さと愚かしさを訴えています。でもその自尊心を優先し、あとで彼女が妖だと判明したとして、わたしが失うものはここで〝自尊心〟を守ることによる益よりはるかに大きい。それゆえここにご先祖さまの霊を頼るものです」
彼女はそこでひと息の深呼吸をし、続けた。
「彼女がいかなる存在であれ、すくなくとも彼女は只者ではありません。相当にあらざるひとつ抜けた能力も、動機のわからぬ奇怪な行動の数々も……此岸におりません先祖の霊に、助けを求めるはわたしの流儀に反します。わたしは正直に申しまして、伝説の水無川の巫女がそうしたように、この弓に宿る神通力が、魔性を祓うなどとはつゆほども思っておりません。わたしは現世を生きるひとであり、たとえ弓にそのような霊力が宿っていたとして、それを扱うわたしの力及ばず、その神秘の力をひきだせはしないでしょう。また神話の如き儀式を執り行ったところで、御伽噺に語られるような巫女の力など、とうてい望むべくもないことは重々承知のうえでのことです」
連理は霊廟のまえで、注意深く自身の価値観を表明しながらも、神話のことを否定することなく、これから話すために必要な前置きを述べた。
「それでもこのことは、彼女がひとの子なのか、それとも妖なのか、あるいは魔性に憑かれた哀れな女の子なのかを、いま判断できかねているわたしに、挑み踏みだすための勇気を授けてくださいます。わたしが臆病になっていることは、わたしにあの子を救えるのかということです。あの子がたとえ妖だとしても、それはわたしの〝おそれ〟には足りえません。いかなる〝敵〟だとしても、ひとたび弓をひく〝決意〟をしたならば、あとはただ〝挑む〟だけ。そこに〝おそれ〟が生じようもありません。では〝おそれ〟とはなにかということを、わたしはご先祖さまが遺された言葉に見つけたのです」
彼女はおもてをあげ目を開き、胸に手をあて告白した。
「わたしが〝おそれ〟ているものはあの子に弓をひく〝決意〟ができないことなのだと。わたしはこの期に及び、あの子を救えるのだと、ひとの身に余るおこがましい念を抱いています。あの子にどんな過去があるかはわかりません。それはわたしにとって〝不可知〟のことです。あの子を救いようのない魔性に憑かれたものだと決めつけて、歩み寄らず、いのちを奪うことは簡単です。躊躇せずに弓をひき、矢で胸を射ればいい。そうではなくあの子のいのちを活かしたままに、あの子の心にたちこめて彼女の行動を支配し、悪しきに誘い彼女を破滅の絶崖へと向けて歩ませる、魔性の呪縛たる暗い霧を祓いあの子を救うことが、一介の人間に過ぎないわたしにできるのかということに、わたしは〝おそれ〟を感じ、わたしの〝決断力〟を鈍らせているのです」
彼女は目をつむり、顔を伏せて続けた。
「わたしはどんなひとであれ、善人でも悪人でも無下にせず真摯に言葉に耳を傾け、まずもって、みずから相手を〝信頼〟し歩み寄ることが相手に心の平穏をもたらして、やがて相手もわたしを〝信頼〟し心を開いてくれるのだと、そう信じてきました。それによって築かれた〝信頼関係〟は万両に勝る価値のあるかけがえのないもので、一生でひとつでも知れたなら万々歳のものだとも。またそれこそがひとの心を救うことができる唯一のものだと、わたしは思います」
彼女はひと呼吸を置いた。
「わたしの幸運は、わたしがそれをひとに与えられたことです。そして同じようにして、わたしもそれをひとに与えなければならないということが、わたしが人生でもっとも大切にしている信念です。しかし残念ながら彼女はまだわたしに心を閉ざし、とても〝信頼〟されているとは言えないことは認めざるを得ません。わたしが〝おそれ〟ていることは、まさにそれなのです。つまりいくらなにをどう頑張っても、ひょっとしたら彼女がわたしに心を開き〝信頼〟してくれることなど、終ぞないのではないかと。すべての努力が徒労に終わり、彼女が生涯ひとつの〝信頼関係〟を得ることもなく、世を恨み、ひとを呪って血の涙を流して眠りに就き、死してなお安らぐこともできず、悪夢に未来永劫うなされるような結末を迎えないかということが、ただただおそろしく〝勇気〟がでないのです」
彼女は立ちあがって目を開き、弓に視線を向けた。
「そして肝心なことは、困難に〝挑み〟第一歩を〝踏みだすための勇気〟を得ることなのだと、またその心の整理のため、もしそれが形骸的な〝虚飾〟だとしても、ときには儀式のような機会がひとの身には必要だということを、遺された言葉を通し、ここでふたたび教えられたことを自覚するに、日増しに抱く偉大な先達への畏敬の念と、ことあるごとに募りは忘れを繰り返し、今度こそは克服したつもりでいたはずの、ひととしてのおのれの至らなさというものを、改めて痛感するばかりです。そしてそれによって得た〝覚悟〟をひとときとも忘れず胸に留め、信念をもって〝行動する力〟を常に絶やさないための象徴として、この弓をしばしといえども、宮から拝借することをお許しください」
小屋で眠っていた鹿のヤフトヘルトは、弓を抱える巫女の声に呼応して目覚めた。
水無川神社への道は、ひとの道と〝けもの道〟とが合流している。旅館からは〝ひとの道〟が続き、やがて幾千もの鳥居が連なる〝けもの道〟が左手に見えてくる。それらの道は途中でふたまたになっていて、神社に着くころに、ひととけものとの道が大きなひとつの鳥居をともにくぐるのだ。
その鳥居の内と外では〝世界〟が異なっている。
それはもちろん、ニュートンがプリンキピアで説くような〝理知的な〟宇宙像における〝世界〟ではない。科学の世界では物理法則は全宇宙に渡って一様に広がっており、鳥居なんて神秘的な人工物の前後で、いきなりすべての物理定数が変わったりはしない。
そんなことは〝科学的〟にありえないのだ。
しかし連理の、そして、その先にいるだろう〝吸血姫〟の認知する唯我論的な〝世界〟というべきものは、確実に変わっていた。
記念品を捨てられないのはなぜだろうか。『金』には国際関係に裏付けされた絶対的な価値があるとされる一方で、ふたりの心を通わせただけの、ありふれた安物には『価値』がないのだろうか。
記念日をほかの日より特別視するのは、おかしなことだろうか。グレゴリオ暦のように天文学に裏付けされた『客観的な指標』だけに意味があり、たったふたりの感情の産物にすぎない〝記念日〟なる概念は、なんの価値もない無意味なものなのだろうか。
それは個人の『主観』や『感情』にすぎないのかもしれない。しかし確実にいまこの場には〝人間の情緒〟によって発生した『主観世界』とでも言うべき、ひとつの〝世界〟が生じていたのだ。
連理は宙に浮いているように見えるその吸血姫を見た。目を凝らせばきらりとたこ糸のようなものが微かに見える。彼女は〝神秘的〟な力で浮遊しているわけではない。物理の法則を駆使して、蜘蛛のように宙に道をつくったのだ。
糸に吊るされて、ここのつの血液袋が鬼火のように彼女をとりまいている。
彼女が片手にしている袋は、空だった。
鹿にまたがり弓を背負う巫女を見て、吸血姫は不敵な笑みを見せた。
「ほら、やっぱりきたね、レンリ」
彼女は空袋を見せつけた。それが最後のひとつの袋だ。
「くると思ってた。うれしい。レンリがここにきてくれなかったらあたし、死んじゃったかもしれないから」
「筋道立てて考えればわかります。夜間に山中を移動するには知識が必要。あなたはまだこのあたりのことをよく知らないでしょうから。それに、あなたがわたしを罠にかけようしていることも」
「うそ! ……通じあえているみたいでうれしい。そこまでわかって、あえて逢いにきてくれるなんて! そうだよ。だって仕方ないよね。レンリの強さはわかってる。あたしはレンリに力でも、技でも勝てない。だったら『罠』にかけるしかない。もうきみは『蜘蛛に捕まった蝶』だ。そおら!」
彼女が手を振りあげると蜘蛛の糸が周囲の木の幹をきしませて、連理の全身を四方八方から襲った。その巧妙な仕掛けがあっという間に彼女の身体を縛りあげ、彼女の指に絡み手首を背で固め、ヤフトヘルトから転落させて無力化してしまう。
連理はぎりぎり足がつくかつかないかくらいの高さで、ただの糸とは思えないほどの力で抑えられ、身じろぎのひとつもできなくなった。
彼女の重さそのものが、その糸をよりきつく、彼女を拘束する力を強くしているのだ。
足をとられて転倒したヤフトヘルトも暴れるがかなり強い糸のようで、鹿の力をもってしても引きちぎることはできない。ついに諦め、その場で動かなくなってしまう。
マグダレーネはとんとんと空中に張り巡らされた糸をつま先で探りあてるように歩き、連理に近寄る。
「……悪いけど、レンリ、こういうのは得意なの。こんなにか弱い女の子が、ひとりで、敵だらけの世界をずっと生きていくには『狡猾』になるしかない。『罠』にかけなければ『罠』にかけられるだけ。この世界にはほんとの意味で〝信頼〟できる『味方』なんて、いないんだよ」
歩みとともにときおり覗く彼女の表情は、どこか悲しそうにも見えた。
「失望したでしょ。軽蔑したでしょ。でもこれが『ほんとのあたし』なんだよ。レンリ、〝信頼〟してくれてうれしかったよ。でも、あたしはレンリを〝信頼〟しない。レンリを疑ってるわけじゃない。ただもうそれで後悔したり、傷つきたくないの。これがあたしの『生き方』なんだよ。期待させちゃってごめんね」
そして連理のそばまで近づくと、彼女のあごをもちあげ目をあわせさせた。
「集まった血液は九ポンド。でも、まだ足りない。血はあわせて一〇ポンド必要なんだ。あとひとりはレンリ、きみの血をもらうことにする」
そしてマグダレーネはきばのように尖った八重歯を見せ、連理の首筋に唇を近づける。
近くで見て、それも前知識がなければ気づけないほどだが、目を凝らせば犬歯の先に、なにか毒腺のようなものが見えた。
きばが肌に触れるか触れないかという瞬間、連理は苦悶の表情で彼女にたずねた。
「マグダレーネ、なんのためにこんなことを。血液が必要なことは、わかりました。でも『なんのために』それが必要なのか……教えてください」
彼女はそこですこし離れ連理の顔を見て、手で口元を隠し笑った。
「そんなこと、教える必要ある? レンリはこれからあたしに血を分けて死ぬんだから」
「それがわかれば、助けになれるかもしれません」
マグダレーネは連理がこの期に及んでそんなことを言う事実に、いらだちを見せた。
「無理だよ。そんな言葉をかけてくれたひとは以前にも何人も何人もいた。でもみんな、あたしを利用するために、あたしを『騙す』ためにそんな心ない言葉をかけてくれていただけだった」
「だからってわたしもそうだと、決めつけないでください」
「この状況だから言うだけでしょ。このまま死ぬのが嫌だから、なんとか言葉であたしを出し抜いて逃れようとしてる。自由にしたらその途端に手のひらを返してあたしを襲うに決まってる!」
「そんなこと、思ってませんよ。なぜなら旅館のみんなは無事でした。あなたがわたしを殺すつもりがないことは、わかっています」
これは連理にとって〝賭け〟だった。その確信がまだ彼女にはなかったからだ。解毒剤のようなものを入手しないと、毒がまわって朝には容体が悪化しているかもしれない。
「レンリとほかのみんなは違う。レンリはあたしの秘密を知ってる。それに悔しいけど、そうとう頭の切れる実力者だって認めてる。ここで生きて帰したら〝仕返し〟されるのがこわいもの。だから殺すの」
「おかしいですね。つまり『わたしだけ特別に』そうするんですか?」
「そう。『レンリだけ特別』に、殺すの」
それを聞いて連理が感じたのは恐怖ではない。
むしろ、すこしほっとしたのだ。
「なら筋は通ります。つまり『あの九人は朝になれば回復』するんですね?」
マグダレーネはきょとんとした。
「……そうだけど、それがどうかした?」
「いえ。だったら本気でやっても問題ないなと思っただけです。『解毒剤』なんて、必要ないみたいですから」
瞬間、はらりと、切れた糸が反動でひるがえる。まぶたを開くとそこには拘束が解かれ両手を開き、左手に脇差を持っている連理の姿。
左手にはひとすじの切り傷があり、薄く血が流れていた。
まばたきするあいだにすべてが変化した。
マグダレーネにはなにが起こったのか、わからなかった。
連理は脇を閉じて支えていた脇差を、そでから落としたのだ。手を使わず『重力』だけを利用して肝心の糸を切断し、それをそのまま手で取ったのだ。
それは偶然ではない。この会話のあいだに、糸の拘束の脆い部分を探っていたからこそできた芸当だった。
マグダレーネが恐怖を感じ姿勢を崩して尻餅をついたとき、見上げれば仁王立ちでそこにたたずむ連理の姿。
「ひ」
彼女は反射的に、両手で顔を防ぎ目をつむった。
予想していた痛みが、こなかった。
彼女が目を開けると、すこしかがんで足元に脇差と弓を置き、そのまま後ろに下がって若干の距離をとり、正座になる連理がいた。
武器は連理の手が届かない場所にあり、マグダレーネのほうが近い。
運動能力の差はあれど、この距離ならマグダレーネが先に取ることができる。
彼女はそのまますこし姿勢をなおしてたずねた。
「ど、どうしたの。武器を手放しちゃって。ナイフも、弓も!」
「話し合いに、武器は必要ないからです」
マグダレーネはその言葉ですこし緊張がほぐれたものの、不可解でたずねた。
「いまさら話し合いって? わかってるでしょ。あたし、もう九人も襲った」
「ええ」
「裁判のことを話し合いって言ってるのなら、応じる気はないよ。その武器をとったら、もうあたしは言い逃れできなくなる。そうやって証拠をでっちあげるつもりなんでしょ。卑怯者!」
連理はなんと言われようと、真剣に『正直』に、答えた。
「違います。わたしが武器を持っていればあなたも安心できない。だから手放すんです。その距離に置いたのは、いざとなったらあなたが取れるようにするためです」
「……信じられない。あたしが武器を持っていようといなかろうと体格だって違うのに、レンリなら、あたしをどうにだってできるでしょう」
「はい、そうですね」
「だったら最初から武器なんて持ってこないでよ! どうして持ってきたわけ?」
連理はそれでも『正直に』答えた。
「相手がどんな仕掛けをしてくるかわからないからです。わたしだっていのちは惜しい。いまは手の内が見えているので、手放しても問題ないと判断しただけです」
マグダレーネはそれでも、連理を信用する気にはなれなかった。
「……それと、この弓は武器ではありません。水無川の家に伝わる家宝です」
「ふうん。大切なものなの?」
「ええ。武器として使用することももちろんできますが、わたしにそのつもりがないことは、矢筒を携えてないことから信じてもらえると思います」
マグダレーネは気にしていなかったが、そういえばと思って見ると、彼女は弓だけで矢を持ち合わせていなかった。矢がなければ弓は武器としては使えない。
「矢のない弓なんてお飾りもいいとこだね。そんなものどうして持ってきたの。重いだけじゃない」
「いえ」
連理はきっぱりと否定した。
「わたしたちは、結局まだ初対面から一日も経っていません。信頼にはどうしたって時間が必要です。たった一日で信頼されるなんて、土台無理なんです」
マグダレーネはおかしくなった。
「そうだね」
「これが普通の相手なら〝去る者は追わず来る者は拒まず〟の姿勢でどっしりと構える。時間をかけて信頼関係を築きます。でも今回は、そうも言ってられません」
マグダレーネはつまらなそうに聞いている。
「あなたにどんな事情があるのか、わたしは知りません。でも非常に急いでいるようには見えます。それこそ今日中にどうにかしなくちゃいけない、というほどに。これはわたしの傲慢かもしれませんが、どうにもあなたを放っておけない気がするんです」
「そうだね。ほっといてよ」
連理はため息をついた。
「はい、最初はそのつもりでした。でも、もうわたしたちには利害関係が発生していて、わたしは明日にでも旅館でなにがあったのかを説明しなくちゃいけない。これはわたしの事情です」
「そうだね。ごめんね。でも、わかってたでしょ。あたしを信頼するなんて甘っちょろいこと言わずに、最初から突っぱねてればこうはならなかった」
「ええ。でも、それじゃあなたは救われない。わたしはあなたの助けになりたいんです」
「だから、いいよ。いいってば。お節介」
「……わたしがこの弓を持ってきたのは、そのためにはまずあなたの〝信頼〟を得る必要があると思ったからです。この弓は家宝。大切なものです」
「悪いけどそんなの見たからって、ぜんぜんおもしろくない。なんの〝信頼〟のきっかけにもならない」
「そうでしょう。だってあなたはこの弓がどれだけ大切なものなのかを、知らないのですから」
マグダレーネは鼻で笑った。
「知ってたって変わらないと思うけど」
「いいえ。たとえばここで、この弓が盗まれたとしましょう。すると女将にはもちろん、神社の参拝客からの〝信頼〟も、わたしは失ってしまいます」
その言葉を聞いて、マグダレーネはすこしその重みがわかってきた気がした。
「参拝客からの〝信頼〟も失えば当然旅館の売上にも影響がでる。わかりますか。この弓がほかの弓とまったく違うものだというのは、ただ単に珍しいものだとか歴史あるものだとか、そういうことじゃないんです。これは〝信頼〟の象徴なんです。〝信頼〟の証拠だと言ってもいい。わたしはあなたがわたしに敵意を示し、この弓を取って逃げたりしないということを『信じて』います。もちろんあなたが実際どうするかはわかりません。それは〝賭け〟でしかありません。わたしはここでのあなたとの対話に、その〝信頼〟を賭けているんです」
マグダレーネはそれを聞いて、さきほどまでの自身の軽率な態度が恥ずかしくなった。
後悔ではない。ただ教養のなさを思い知らされた気がして、みすぼらしい服で演奏会に出席するような、そんな恥ずかしさを感じたのだ。
「いいですか。〝信頼〟は目に見えません。〝信頼〟には証拠が必要です。たしかにその証拠は金本位制においての『金』かもしれない。でも、それは〝信頼〟の証拠として必要というだけです。ほんとに大事なものは〝信頼〟なんです」
連理はそう前置きして、続けた。
「相手に正直に話してもらいたければ、まず、みずから正直に話す。相手に〝信頼〟してもらいたければ、やはりまず、みずから相手を〝信頼〟する。それが原則です。『騙せば騙される』し『裏切れば裏切られる』し『利用すれば利用され』ます。裏切りが連鎖するように、信頼も連鎖する。だったら信頼のほうがいいってだけの、単純なことです。いざというときに裏の意図などないと信じてもらうために、わたしは常日頃正直に生きているつもりです。イソップ寓話にあるように『狼少年』は大事なときに信じてもらえないものです」
それはマグダレーネにもわからなくもない言葉だった。というより、わかっているはずの、当然のことだ。わかっていることを再三言われるほど頭にくることもなかなかない。
彼女はこんなときに優位な立場を利用して説教を始める連理に、かつての両親の面影を重ねたような気がして、すこしうんざりしてもいた。
それでもちょっとはその言葉を真剣に聞こうと思ったのは、彼女のこれまでの行動が、すくなくとも相手を利用したり貶めようとするようなものではない、誠実なものに思えたからだ。
それはマグダレーネに彼女をすこしは〝信頼〟してもいいかなと思わせる『証拠』たるものだった。
「わたしはあなたを〝信頼〟している証拠をいくつも提示し、あなたの質問には、すべて『正直に』答えました。もちろん、世の中にはここまで尽くしても応えてくれないひともいます。でも、あなたはそうではないと思う。理由はいくつかあります。たとえばあなたが血を奪ってもあくまでいのちまでは奪わなかったことなど、あなたがまだひととしての最後の一線を、越えてはいないと思ったからです」
その言葉を聞いてマグダレーネはついに、すこしくらい正直になっても、すくなくとも損はしないかなと、そんなふしぎな気分になった。
その妙な感情を言い表す言葉を、マグダレーネは知らなかった。ただ、すくなくとも悪いものではなかったし、不快な感じもしなかった。
もちろんまだ、彼女を完全に信頼したわけでもない。
とはいえもはや彼女の生殺与奪は連理の手のひらだ。逃げても足の速さも違う。捕まることは目に見えている。武器を取って戦っても勝ち目はないだろう。
彼女はここはへたに動かず彼女との対話に臨むのが『得』だと判断した。彼女にとっては〝利害〟が一致したのだ。
「今度はあなたの番です、と言うつもりはありませんが、もし正直に話してくれれば助けにはなれるかもしれません。事情を、正直に話してください」
「……なにを話せって」
「血液が必要な事情があるのでしょう? 医学を修めていると聞きましたし、それはうそではないようです。なにがあったんですか」
マグダレーネはこれまで耳障りのよい言葉ばかりで忘れていたものの、ついに、入ってこられたくないところまで無遠慮に踏み込まれてしまったような気がして、かあっとなり立ちあがって怒鳴った。
「理解してくれるわけない! レンリ、ひとにはね、触れられたくない過去だってある。いろいろよくしてくれて、ほんとに感謝してる。これは正直なきもち。でも気遣いなんてけっこう! そんなものなんの足しにもならないの。もしほんとにわたしのことを考えてくれるなら、黙って血を寄越して!」
連理は気丈な表情を保っていた。
「マグダレーネ、いいですか。世界はあなただけのものではありません……あなたの言うように、もう九人も同意なく血をとられています。さぞ不安だったことでしょう。あなたは彼女らに、説明する必要がありますよ」
彼女はそう言われて、たしかにその通りだと思い、落ち着きを取り戻して座った。
それでもマグダレーネはすべてを話す気にはなれなかった。
「……レンリ、悪いけど、やっぱり言えない。正直に言うと、軽蔑されるのがこわいの」
連理は彼女がすこしずつ正直に話してくれるようになっていることを感じた。
「しませんよ」
「うそばっかり! きっと聞いたら態度を変える」
「そんなことありません」
「だったら聞いて。あたしがここにくるまでのあいだ、オランダ船でなにがあったのか」
「どうぞ」
「船のなかで、血が足りなくなったの。あんな海上の孤島でこんなふうに血液を集めたらどうなるか、わかるでしょ。船は大混乱だった。順調に航海すれば一日でアムステルダムに着くはずだったのに……」
連理は真剣に耳を傾けていた。
マグダレーネは言葉にするたびに、だんだんと過去の記憶を鮮明に思い返してしまって混乱が始まった。
「……みんな疑心暗鬼になっていた。あたしをかばってくれたひとがどうなったか……とにかく! あたしのせいで船は難破した。それは否定しようがない事実だった。でも、あたしはだれも傷つけるつもりなんてなかった!」
連理は彼女がなにを言っているのか頭のなかに思い描きつつ静かに黙って聞いていた。
この狂乱を見るにそれがただごとではなかったことは、連理にも容易に想像できた。
「ほら、あたしはこんなに最低なんだよ。レンリ、わかるでしょ!? レンリが助けたいと思ってた、か弱くて薄幸な、かわいい女の子なんていないんだよ! そんなのレンリのなかに勝手に生まれた、ただの幻想……あたしじゃないの!」
連理は彼女の混乱具合を見るに、すこしなにか言わねばと感じたが、ここで近づいたらかえって不安にさせてしまうと思ったので動かずに言葉をかけた。
「そのときは、血液を集めている理由は説明したんですか?」
連理がそう言うと、マグダレーネは我に返って一気に血の気がひいたみたいに、冷静になった。
「……してなかった、と思う」
「ちゃんとした事情のあることでも、それを説明されずに強引にやられたらだれでも不安になりますよ」
マグダレーネはたしかに、と思った。
「軽蔑、しないの?」
「してどうするのでしょう」
「だってあたしのせいで船のみんなが! そのせいでこんなところまで流されて……旅館のみんなにも、迷惑をかけて」
「どうして済んだことを軽蔑するんですか? それに話を聞くかぎり、あなたが直接手を下したわけでもないのでしょう。その原因があなたにある、と考えることは仕方ないことかもしれませんが、あまり益のあるものではないと思います」
連理が思ったよりもいい意味で中立な態度で接してくれるので、マグダレーネはすこし安心した気がした。
「もちろん、わたしはすべてを知っているわけではありません。当事者でもなければ利害関係にもありません。ひとの過去なんて〝不可知〟のことなんです。未来は〝未知〟で、いずれ知ることで〝既知〟になる可能性もありますが、過去のことなんてあなたの言葉を信じるしかない。そんな〝不可知〟のことをどうこう言うなら、せめて、いまここにいるあなたのためになることを言います。過去のことよりこれからのこと、それが原則です。あなたにとってなにか悪い過去があったとして、あなたは、そのときをどう反省し、それをどう未来に活かしますか」
マグダレーネはそこまで言われてやっと連理の言わんとすることがわかった気がして、答えた。
「レンリの言うように、きっと、これからは事情を説明したほうがいいのでしょうね」
「はい、そうだと思います。当時……なにがあったんですか」
「切羽詰まっていたのよ。薬がないと……」
「薬?」
連理は耳ざとくたずねた。
言葉のあやで言うつもりはなかったが、マグダレーネは観念した。
血液から薬をつくるなどまさに魔女の所業だ。異国の地とはいえそんなことを軽々しく口にしたらどうなるかわかったものではない。製法を話したことはないが、薬の存在自体を明かすだけならこれまでにも事情の説明のためにしたこともあったので、メフィストに対するうしろめたさもなかった。
そしてどうせ正直に話さなければ、逃げても捕まるだけだ。
「人間の血液を原料に精錬する薬があるのよ。もとは錬金術のものらしいけど……あたし、それがないと死んじゃうの」
連理は突拍子もない話に肝を抜かれた。
それでも、それを前提とすればすべての筋は通ると理解した。
マグダレーネは肩をすくめた。
「……なんてね。信じられないよね。あたしだって、最初は……」
連理は、黙っていた。彼女の言葉も耳に入らなかった。
将棋を指すときのように、考えごとをしていたのだ。
これからすべてのものごとをうまく運ぶには、どう指せばよいか。
「……でも効果は本物なの。じゃないとあたし、いま生きてないもの」
「……とん、とん、とん……」
「だからなにってわけじゃない。ただ、それがあたしが血を集める理由。どう? 話したよ。信じてくれる?」
「いえ……」
「でしょ。レンリ、世の中は複雑なんだよ。信じられないようなことがいくらでもある。ちょっと話したくらいでわかりあえたら、世話ないってもので……」
「いえ、信じる必要はありません。ただ参考にすればいい。そんなことはわたしにとって〝不可知〟なんです。いいことを思いつきました。ただ時間が必要です。マグダレーネ、ひとまずあと一ポンドの血液は今日中に必要なのですか」
マグダレーネはいきなりとんとん拍子で進む話に、目を丸くしてしまった。
「ええ。ひとまず一ポンドあれば、あとひと月はもつと思う」
「じゃあとりあえず、わたしの血を使ってください」
「はあ!?」
マグダレーネはまたわけがわからなくなってしまった。
「だったら最初から……どうしてこんな回りくどいことをするの!?」
「〝急がば回れ〟です。そのほうが結局は近道なんです」
「なにを言ってるの? どういう意味? わかんないよ!」
「たったの一ポンドでいいんですか? ずいぶん謙虚なんですね。いろいろ話してくれてもっと何百、何千ポンドも血液を集める方法を思いついたのに?」
マグダレーネはまたも度肝を抜かれた。
「ありえない。そんな方法、わたしの人生で一度も……」
それでも彼女は、どういうわけかそれがうそではない気がした。
これまでも連理は『正直に』話してくれたのだ。
マグダレーネは息を呑み、たずねた。
「……よかったら、聞かせてもらってもいい?」
「もちろん。瀉血を使います。来週は神社でお祭りがあります。そこで西洋医学と言って健康法として、任意参加で血液を集めるんです」
瀉血。身体の老廃物などを体外に排出する目的で、血液を抜く医療行為。
西洋ではたしかに日常的に行われている。しかしマグダレーネの理解するところでは、最先端の医学ではそれに医学的な根拠があるわけではなく基本的には経験則の域を出ないものだ。
それを『医療行為』と称して行うことにマグダレーネは気がとがめるものがあった。
「わかってる? 瀉血っていうのは、そこまで根拠のあるものでもなくて……」
「ええ。そうは聞いたこともあります。でも仕方ないじゃないですか。それに、健康にはなると思いますよ」
「そんなことありえない。なったとしても、たまたまだよ。でもどうして? 理由があるなら聞かせて」
連理は立ちあがって自信満々に言った。
「まず神社にくるためには山道を歩く必要があります。つまり登山! 運動をすることになりますね。旅館では健康な食事もご用意していますしこれは脚気、いわゆる『江戸患い』対策も万全です。そして温泉! ゆっくり長く浸かって身体を温めれば血行がよくなり身体にはよいものです。下山するころには寿命が三日くらい延びた感じがすると思いますよ」
マグダレーネは呆然とした。
「……瀉血要素が、なにもないじゃない。そんなの『瀉血をする必要がない』よ」
すると連理は思わせぶりな顔をした。
「それでほんとに効果がある必要なんてなくていいんです。ただきっかけが必要なだけ。そういうきっかけでもなければ運動しないようなご老体もたくさんいます。〝きっかけ〟自体がなにか即物的に意味のあるものでなくとも、その〝きっかけ〟があってなにか意味のあることをすることができたなら、それってきっと、意味のあることです」
マグダレーネはその考えかたを聞いて、一理あるなと感心しつつまだ抵抗があった。
「でも……なんだか騙してるみたいで気がひける」
「それでも、同意もなく血を奪うよりはいいと思います。どっちみちあなたには血が必要なのでしょう? あれもいやこれもいやじゃ最後の最後までなにもできません。だったらなにがいちばんましかです。必要悪だと思って、やってみたらどうでしょうか」
マグダレーネはその言葉で、やっと決心がついたのだ。
その日は最後に一ポンドだけ血液が必要だったのでマグダレーネは連理と旅館に戻り、巽為風の部屋でふたりきりになって、血を分けてもらった。
「この、首を噛む過程はどうしても必要なんですか?」
首筋に噛みつこうとするマグダレーネに、連理はたずねた。
彼女は赤くなって答えた。
「しなくてもいいけど、痛いよ? これ、麻酔なの。レンリは筋肉量が多いみたいだからちょっと長く噛む必要があると思う。効いてくると全身が動けなくなるまでふわふわして痛覚がなくなるの」
「なるほど……ちょっとこわいですね」
「痛かったら、すぐに言ってね」
そう言ってマグダレーネは彼女の首に甘く噛みついた。
麻酔で徐々に意識が薄れるなか、重いまぶたの向こうに、連理は吸血姫の声を聞いた。
もう指先もぴくりとも動かず、視界もだいぶぼんやりしている。
「ねえ、レンリ。あたし、レンリのこと信頼したわけじゃないんだよ」
それはまごうことなきマグダレーネの言葉だった。
「それがあたしの本音なの。最低だって思ったでしょ。こうやって優位に立つためなら、いくらでも猫かぶって騙す悪い子なの。でもね……」
そのあと彼女は連理の耳元で囁いた。
「……今日くらいなら、ほんとにレンリのこと〝信頼〟してもいいかなって思った。もしほんとに何百、何千ポンドも血を集めてくれるなら、一日くらい〝賭け〟てもいいかな、って。第一人間なんて、ひと晩ぐっすり眠ればもう別人。今日のレンリと明日のレンリが同じふうに言ってくれるなんて、わからないでしょ。でも、すくなくとも今日のレンリは〝信頼〟してる。それに今日のレンリには、明日のレンリを〝信頼〟するよりも、もっとずっと大切なことを……だれかを〝信頼〟することの大切さを教わった気がするの。もしこれが、これからあたしがちょっとでも、ほかのだれかを〝信頼〟できる〝きっかけ〟になったのだとしたら……それはきっと、レンリ個人を〝信頼〟するよりも……レンリ個人との〝信頼関係〟よりも、ずっと大切な〝きっかけ〟だったと思ったの。だから……」
それから彼女はすこし顔を離して、連理の目を見て言った。
「もしこれが今日一夜かぎりのことになるとしても、せめてレンリに対してだけは、正直に生きようって思った。ありがとう、レンリ」