宿泊客が寝静まった夜のこと。お雪とマグダレーネは離為火の部屋で、もう三刻も静止したように静かに過ごしていた。連理が時おり様子を見ることも兼ねて差し入れを持って部屋に入っても、そこには一刻前となんら変わらず、スクエア・ピアノのまえに腰かけ、ポーズをとって微動だにしないマグダレーネとそれを絵に映すお雪がたたずんでいた。

 唯一の変化はキャンバスの中身と、部屋の明るさだ。

 陽がすっかり落ちても、雲に遮られることのない月の明かりは灯籠を必要としないほど強いものだった。それはマグダレーネの輪郭をよりいっそうあらわにし、彼女の影は畳のうえに、くっきりと長く伸びていた。


 日帰りのお客がのきなみ下山し、お昼の忙しさに比べると、水無川旅館の面々はだいぶ落ち着いて仕事をできていた。

 もちろん宿泊客はいるので基本的に二四時間いつでも対応できるよう、とくに仲居さんは本棟の寮で待機している必要がある。そのため常に数人が住み込みで働いていて、下山は週に一度ということも多い。繁忙期には従業員の全員が集まることもあるが、いつもは交代制で、今週は稲や(つね)がそうだった。

「若女将、また離れに泊まるんですか?」

 だだっ広い和室に布団を二枚敷き終え、(つね)が心配そうにたずねた。

 水無川旅館の離れの本棟で、仲居さんや調理係が共同で泊まる部屋。いまこの部屋には仲居の稲と愛がいて、調理係の弦や秋、司書さんらはまた別の部屋。

 稲や愛は旅館に住み込みで働いているだけで、実家はふもとにある。一方で連理の実家は母屋なのだ。かれらが住み込みで働く理由は毎日この登山道を歩くのが大変だからで、毎朝決まった時間に旅館にこれるなら必要はなく、もともと山のうえに実家がある連理が離れに寝泊まりする理由はあまりない。

「ええ。どうせ空いているので、今日は宿泊棟に泊まろうと思います」

 稲が愛の耳に口を近づけ、手で口元を連理から隠して、ひそひそ声で愛に言った。稲は愛より一年ばかり先輩だった。

(若女将、女将と仲悪いんだよ)

(初耳です)

(あっちに帰りたくないときはこっちに泊まるの)

(へえ)

 連理はおどろおどろしく言った。

「聞こえていますよ」

 愛は慌てて謝った。

「ごごご、ごめんなさい」

「いえ、そんなことはいいんです。もっと大事なお話があります。ふたりにちょっと深夜の待機をお願いしたくて」

 稲は困惑した。

「はあ。いつも通り、だとは思いますが」

「今日はいつもとはちょっと違います。わたしは宿泊棟にいます。本棟でなにかあったらすぐに知らせてほしいんです」

 愛はきょとんとした。

「もちろんですよ。いつも通りじゃありませんか」

「いえ、いつも以上に注意してほしいんです。今夜は常にふたりで行動し、決してひとりにならないでください」

「厠もですか?」

 稲が茶化すように言った。愛は赤くなっている。

 連理はかれらの緊迫感のなさにすこしいらだちを感じたが、あくまで言葉にはださないつもりでいた。この妙な不安は彼女のなかで押し殺すべきものだと。

「それくらいは、自己判断でお願いします。ただそれくらいの心意気ではいてください」

 稲はけらけら笑った。

「わかりました。愛、だって」

「じょじょじょ、冗談でしょ!?

「実際にそうするってわけじゃないけど、つまり、それくらいのきもちでいろってこと。ですよね?」

「はい。ただ……」

 連理はなにか虫の知らせを感じていた。

 彼女のその暗い面持ちから放たれる不安は、ふたりにも伝わった。

 稲はたずねた。

「なにか、心配ごとでもあるんですか」

 連理ははっと我に返った。そして顔をぶんぶん振った。

(いけない。若女将が明るくしなければその暗いきもちはみんなにも伝わります。わたしだけでも気丈にふるまわなければ)

 そして彼女は顔をあげて言った。

「いえ。ただ今日はいろいろと忙しかったですね。ただでさえこの時期はお祭りが多くて来週も神社で催し物があります。先週だってばたばたしていた。今週はこの時期にしては珍しく休まると思って、来週への備えも兼ねてみなさんには休暇をとってもらい、ふたりに任せたらこの始末です。ごめんなさい」

 いきなりの脈絡のない言葉に、ふたりはこそばゆくなった。稲は頬をかいて答えた。

「水くさいです。聞きましたよ。西洋の戦争が終結して、そのお祝いとかなんとか。それを予想するなんて無理ですよ。お雪さんがご予約なしで、当日にいきなり現れたのも関係してます。いろいろなことが重なりすぎましたし、若女将はもっと大変でしょう。来週の祭事の準備はどうですか」

 連理はそれを思い出すとくらっときてしまった。

「いえ……週末には済ませるつもりです」

「神社でお祭りがあれば旅館にもたくさんひとが集まります。来週はもっともっと忙しくなります」

 愛はそれを聞いてあわあわしている。

「七夕のときは四人でも足りないくらいだったのに、あれがまた?」

 稲は去年の経験から言った。

「八月はもっと。ただでさえひとが多いうえに、気温も高くて陽射しも強い。わたしたちが平気でもお客さまが倒れることだってある。お医者さんだって呼ぶこともある」

 愛はぞーっとしている。

「稲、あんまり怖がらせないでください。愛、平気ですよ。そんななかでふたりにお願いするのはとても心苦しいですが……そういうふうに、今週は例年とはちょっと違っているんです。ふたりがいつも頑張っていることは承知のうえで、なおいつにも増して注意してほしい。そういうきもちがありました。お給料は弾みますよ」

 するとふたりは顔を輝かせた。稲は尻尾をばたばたさせるみたいに答えた。

「なあんだ、そういうことですか。だったら初めからそう言ってくださればよかったのに。わかりました。任せてください! 愛、交互に仮眠をとるのよ」

「え!? もう眠いですよ。第一みなさん眠っていらっしゃるのに、起きてたってどうせなにもないですよ」

「なにかあったときみんな寝てたらなにもできないでしょ! 就業規則にもだれかひとりは起きてるって……」

「え、そうでしたっけ」

 稲はそこまで騒いで、その場に若女将がいることを思い出して顔面蒼白になった。

「ごっ、ごめんなさい! いつもは寝てるってわけじゃないんですよ!?

 連理はおかしくなった。

「ふふ。いいですよ。それにあの規則は三人いる場合。繁忙期のためのものです。ふたりのときには適用されません」

 稲はほっと胸をなでおろした。

「驚かせてごめんなさい。ともかく今日はすばらしい働きでした。お疲れさまです」

 連理がそう言うと稲と愛はうれしそうに答えた。

「お疲れさまです!」

「お疲れさまでーす!」


 連理は思うところがあり巽為風(そんいふう)の部屋で巫女装束に着替えた。緋袴は動きやすい。戦闘においては着物より有利だ。彼女が持っている衣装のなかではそれがいちばん戦いには適していた。

 彼女はなぜだか、これから争いが起こるような、そんな嫌な予感を感じていた。

 それも単なる『人間』が相手ではないような、強いて言うなら(あやかし)に類するなにかに、いままさに相対しているような。

 その感じがどこに由来するものなのか、それは彼女自身わからなかった。たとえば例年にないような悪運が重なったこと。たとえば彼女の身のうえを聞いたうえでの、どうにも腑に落ちない奇妙な感じ。

 しかし単なる漠然とした不安から備えているわけではない。不安を感じる具体的な理由がいくつかあったのだ。

(あのとき、マグダレーネはわたしに噛みついてきた。あれはどうして?)

 連理は食材を運んでいた。この地で必要な食料を確保するために襲われたのだとすれば筋は通る。ひと目もなく、ひとりで食べるならじゅうぶんな量があった。

 だから連理は、てっきり彼女がおなかを空かせての行動だと、すくなくともあのときは思っていたのだ。

(もし、ほんとうに彼女が食事目当てで襲ってきたなら、食事を提供すればだれかを襲う理由はないはず。お雪の部屋には食べ物を運んだけど……でも……結局あれから、食事に関して彼女、なにも言ってきてない。途中途中に差し入れしたときも、ひとかけらだって食べた様子も見られなかった)

 彼女は緋袴の帯を締め、脇差の鞘から刃を抜き指先に軽く触れさせ切れ味を確かめた。

 しずくになってあふれる、鮮血。

(おなかが空いているようにも見えない。栄養失調のようにも見えなかった。金貨だって持ってた。飢えて切羽詰まった状況ならともかく、お金もあって医学の話もできて楽器も弾けるような、立派な教養があって多分に知性的な女の子が出会い頭に食事目当てで……あんな襲い方してくる?)

 連理は指先にできた、血のしずくを見つめた。

(……血……あのとき、わたしは脚を擦って……)

 そこで連理は理解してしまったのだ。

(まずい!)


 連理は足袋(たび)で駆けた。

 深夜、亥刻半。あと半刻で日付が変わる時刻。

 連理は提灯を片手に、その明かりを頼りに廊下をできるだけ早く歩き、お雪の泊まっている離為火の部屋の戸を叩いた。

「お客さま、夜分遅くに失礼します。緊急のご用件です。起きていたらご返事ください」

 返事はなかった。

「……失礼します」

 連理は戸を開けなかを見た。

 布団のうえで、お雪がぐったりとうなだれていた。眼鏡をかけたまま掛け布団のうえにうつ伏せになっていて、眠っているようには見えない。

 マグダレーネは、いなかった。

 お雪が気を利かせたのか夜食は追加でふたり分注文されていた。もともと大食いのお客もいるのでそれ自体はふしぎなことではない。

 ただマグダレーネの分のはずのものには、ほとんど手をつけられていなかった。

 連理は冷静にお雪の肩を抱きかかえ、仰向けにさせて手首の脈をとった。

(生きてる。でも不整脈だ。過呼吸も起こしている)

 その首筋にはふたつの斑点。

 薄く弧状のあざができている。大きさを見るに子どもの歯型。斑点はちょうど八重歯の位置で、もう止まっているが、そこから血が流れたあとが見える。

 それよりお雪の左手首のほうが深刻だった。止血処理はされているものの、包帯が赤く変色するほどの大出血を伴った形跡がある。

(でも、すごい。止血は完璧だ。医学を修めたという話はうそじゃなさそう)

 連理がふたりから目を離したのはせいぜい一刻半。なにごともそうだが、壊すのは簡単でも治すのは難しい。人体に対する深い理解と治療法を心得ていなければ、この短時間でできる芸当ではとてもない。

 連理は他者を害する行為はそれがなんであれ称賛するつもりはない。しかしこの手際を見せられては、彼女がそうとうの実力者であることは認めざるを得なかった。

 彼女はお雪に声をかけた。

「お雪、起きてる? ていうか生きてる?」

 すると彼女はぼんやりと目を開けた。

「……お漣、うれしいぞ。韻を踏んでて、すこしおもしろい」

「冗談じゃない」

「楽しいのは重要だ……元気がでる。眼鏡をとってくれ。目がかすんで見えない」

 彼女は眼鏡をしていた。

「寝ぼけてるみたいね。眼鏡は目のまえにあるよ」

 お雪は顔を触って確かめようとし、途中まで手を動かしてから筋力を失ったみたいに、ぐったりと力なく腕を落とした。

「……どうにも、力が入らないな……」

「すごい出血を起こしてる。気づいてる?」

 彼女は左手首を見た。

「……そうだったな……」

「なにがあったの」

「……なにがなんだか。ただ、血を抜かれたのは覚えている」

「血を抜かれた?」

「こう、管のようなものを手首に……血がどんどん身体から袋に詰め替えられて、おそろしい光景だった……いやなにごとも経験だ。こういう奇天烈な体験を糧としてだな……」

 そのおぞましい光景を想像すると、連理はますますマグダレーネが(あやかし)に類する存在なのではないかという気がしてきた。医学を修めたって、なんのために血を抜くのかがわからない。彼女は瀉血という医療法があることは知っているが、それにしても、医療目的のことならお雪の同意をとっているはずだ。連理は彼女の反応を見て、すくなくとも医療目的ではなく、医学の知識を悪用しているのだと感じた。

 お雪はおかしそうに続けた。

「それに言葉はわからないが夜食を注文したあと、彼女はどうにも食指が進まないようでな。『これがわたしの食事です』とでも言わんばかりにぼくの首筋に噛みついて……動けないぼくの腕に針を刺し、管を血がおのずとのぼっていき、だんだんと身体から力が抜けていくんだ。指先がかじかみ、生きて解放されるのか、それとも死ぬまで続けられるのか、いつ終わるともわからぬそれは……生殺与奪の一切を相手に握られて、いくら不安に思い恐怖を感じようともなすがままに身を委ねるしかないその状況は……まさに『捕食行為』だった。ぼくはそのとき確実に、彼女の『餌』になっていたんだ。『食べられる』ってこういう気分なのかと……狼に捕食されるうさぎのきもちを味わったよ。いやあ、いい経験だった。これを活かせば、きっと現実味のある絵を描けそうだ……」

 お雪の奇妙な証言は、彼女の独特な気立ても十二分に影響してだいぶ大げさに表現してはいるのだろうが、きっとうそはついていないのだと連理は思った。

 その言葉を字義通り素直に受け取るなら、それは生来の(あやかし)

 そうでないなら魔性に憑かれた科学者だ。

 連理は彼女の話が重要なものだと理解したが、なによりお雪の容体が先だ。彼女はそれらの話をいっぺんに無視してたずねた。

「首はどう」

「噛まれたが、どうかしたか」

「いえ……なにがあったか、事実を教えて」

「……最初、噛みつかれた。そのあと妙に頭がぐらりときて、倒れた」

 連理は身に覚えがあった。ただ、あのときはすぐに処置をしたので身体までまわらずに済んだのだろう。

「毒ね」

 奇術師はしばしば手品のために身体を手術で改造してしまうという。密輸のために口内の粘膜に『袋』を設け、劇薬が漏れ大惨事になった例もある。

(歯に毒を仕込む、か。考えたな。歯なんてふつう調べない。見た目には素手で無害でも犬歯には毒薬。あごの力は子どもでもそうとう強い。小柄で腕っぷしではかなわなくても血の通っている部分を噛めばあっという間に……まるでへびみたいだ)

 自力でやるかだれかに頼むか。いずれにせよそのような芸当には医師の協力が必要だ。

 それも凄腕で、そういった手術をする理由に対する理解と権限のある。

(……あの子、ひょっとして思ったよりずっと……)

 ただそれは連理が想像できる範囲での〝科学的〟な解釈で、きちんと確かめたわけではない。そんなまどろっこしい理屈をこねなくても、ひとこと、こう言ってしまえばすべて説明できる。

 彼女は生き血をすする(あやかし)なのだ、と。

(そんな、ありえない。そんなもの、この世に存在するわけが……)

 連理はすくなくとも、いま、この瞬間まではそんなもの、ただの御伽噺のことで空想の存在だと思っていた。

 その世界観が、この信じられないような奇怪な現実を目の当たりにして、いま彼女のなかで揺らぎ始めていた。

 いちどその可能性に目を向けてしまえば、過去のすべての記憶が蘇る。それさえ認めてしまえばすべての謎が解けてしまうことに、彼女は気づいた。

(……魔女裁判……どうして邦を追い出されたのか……)

 連理の頭のなかで、なにかよくないものがめぐり始めていた。

(……もし彼女がほんとうに(あやかし)に類する存在だとして、わたしはどうすればいいの。理解不能な相手に対して、どうすれば旅館を守れるの……?)

 連理はそんな悪い想像が始まることを感じ、早々にそれを頭から意識的に追い払って、たずねた。

「お雪、気分はどうですか」

 お雪は脱力して、だるそうに答えた。

「……眠い……もう、寝かせてくれ……」

 連理は不安を感じた。彼女は多少なりとも医学の知識はあったから、大量に出血しているとはいえ止血は済んでいるし意識もあるようなので、安静にしていれば命に別状はないようにも思えた。だが医者ではないから自信を持てなかった。それより自己判断で万が一の場合があったときに後悔するほうがおそろしかった。

(もしお雪がこのまま眠って目を覚まさなかったら……)

 彼女はそう感じた。

 とはいえこんな時間にお医者さんを呼べるはずもない。できることは朝までつきっきりで面倒を見ることくらいだ。

 だから叫んだ。

「お雪、待っていてください。いま仲居さんを呼んできます」


 連理は本棟に戻り、稲と愛のいる部屋の戸を叩いた。

「稲、愛、いますか?」

 連理は何度か戸を叩き返事がないことを確認して、また寝ているのかなと思った。

「起きてください」

 何度か戸を叩いて、連理は異変を感じた。

 ふたりは肝心なときにいつも寝ているが、やっぱり呼べばいつも、すぐに目を覚まして寝ぼけながら戸を開く。

 それが今度ばかりは違った。

 連理の背筋をぞぞぞと嫌なものが這いあがり、彼女は急に不安になって戸を開けた。

 そこには仲居のふたりが、雪と似たような境遇で倒れていた。

 手首に真っ赤に染まった包帯を巻かれ、止血はされている。

 しかしふたりは確実に『襲われた』あとなのだと、連理は理解した。

「稲! 愛!」

 連理はふたりに駆け寄って脈を確認する。

(よかった、生きてはいる。でも、まさか……)

 彼女はつぎつぎと本棟の部屋を開いた。住み込みの従業員の無事を確認するためだ。

 血を抜かれ倒れている調理係の弦と秋。

 図書室の司書さん、旅館の受付さん、購買部の売り子さん、温泉や設備の清掃係。

 本棟にいる八人の従業員すべてが襲われていた。

 連理はわなわなと震え、温厚な彼女のなかの、決して越えてはならない一線を、こうも軽々しく踏みにじられるのかと怒りがふつふつと湧くことを自覚した。


 連理は館内のすべての場所を確認した。まずは宿泊客の安否を確認するためだ。

 どういうわけかお雪を除けば、宿泊客は無事だった。

 連理は混乱した。人数の問題でもない。団体の宿泊客もいるが、お雪のようにひとりのお客さんも、ふたりの新婚さんもいる。大勢に挑むのを避けた、というような単純な理由では説明できない。

 連理はそのことで、やはりマグダレーネには事情があって、すくなくとも悪意があってのことではないと感じた。

(あの子……せめて旅館の〝信頼〟だけは傷つけまいと)

 マグダレーネがどのような事情でこんなことをしでかしたのかはわからない。

 連理はやはり彼女にはなにか話せない事情があってのことなのだと、そしてそれを理解せずして彼女に敵意を向けるような真似はしないという信念を、心中で新たにした。

 連理は宿泊棟の広い庭の隅々まで探した。しかしマグダレーネはいなかった。

 夜間の下山は危険だ。もし山から降りて逃げられたのだとすればもう連理には探しようがない。しかし夜の山というところは、一歩足を踏み外せば生死にかかわるだけでなく、人間をおそれない野生動物がうろついている。

 動物は人間が思うよりもずっと賢い。旅館が襲われないのは、そこが人間の縄張りだと動物がわかっているからだ。

 動物は無作為に人間を襲ったりはしない。動物は人間の縄張りを尊重する。だが縄張りを侵されればきばを剥く。あるいはだれの縄張りでもない戦場では、狩られることを覚悟し狩りに臨んでいる。

 その旅館という人間の縄張りから一歩外に踏み出すということは、動物にとっての狩りの戦場に、あるいはほかの動物の縄張りに踏み込むということでもある。

 動物の縄張りは巣のような『場所』であることもあるが〝けもの道〟のような『道』に及ぶこともある。動物に『人間の道』とみなされている道は比較的安全だが、それは人間には判断しようがない。舗装されているとか人通りが多いだとか、そういう人間の考える基準とはまったくべつの基準になる。

 動物が縄張りと考える〝けもの道〟を侵せば、襲われても文句は言えない。それは時刻によっても季節によっても変わる。どこが〝けもの道〟なのかということは、この土地に慣れている連理にさえわからない。

 ましてや西洋からやってきたばかりの女の子に、わかるはずもない。

 月はかげり始め、道は暗く足元もおぼつかない。この深い夜にはただでさえふもとまで無事に降りることは難しく、道に迷えば遭難に直結する。彼女にとっては未知の、獰猛な動物に襲われないともかぎらない。

 夜の下山は、まさにいちかばちかだ。

 あの聡明な少女がそんな博打にでるとは、連理には思えなかった。

 しかし、いくら探してもマグダレーネは旅館にはいない。うまく隠れている可能性も、ないことはない。だが旅館にいないのだとすれば探しても徒労に終わる。旅館にいないとすれば。

 連理には彼女の行き先にひとつだけ心当たりがあった。