西洋婦人と若女将が異国の言葉でなにやら熱心に話し込んでいるのを廊下からこっそり観察し、胡坐をかいてスケッチをしている絵描きの女の子がいた。

「ふむふむ。今度の『西洋婦人』はやたらと小さいな。漣と一尺は違う。漣はたしか五尺五寸くらいだったはず。目測で四尺五寸か……」

 彼女がキャンバスと実物のあいだで交互に目を動かすと、そのたびに視覚から得られる情報が変わってしまう。

「せめて時間が止まってくれるとありがたいのだが」

 彼女がふたたび顔をあげると、そこにふたりはいなかった。

「瞬間移動!? あいて」

 彼女が後ろを見ると、連理と異国の西洋婦人がそこにいた。

 連理がわなわなと震えている。

「雪……ひとの絵を描くなら、こそこそせずそう言ってください」


「頼む! 漣……彼女の通詞を務めてくれ」

 マグダレーネとの話がひと段落して連理が仕事に戻ろうとすると、今度はお雪が彼女のあとをつけてまわった。

 連理はマグダレーネに、ひとまず館内の案内図と自由に出歩いてよい場所を伝えて彼女とは別行動となった。しかし今度はそれ以上にわがままで厄介な相手が後ろをついてくるようになってしまったのだ。


 厨房。

 日帰り客と宿泊客をあわせるとけっこうな人数になるが、それをたったふたりの調理係がまわしている。ときにはそこに連理が加わることもある。連理は鳥居さんのようにお客の相手をすることも、厨房に立って料理をすることもあるのだ。

 調理係のお(つる)とお(あき)が、若女将のおしりを追いかけるお雪にあんぐりとしていた。

「弦、秋、押していますがどうですか」

 血眼でお皿を洗っている弦を横目に、火を見ながら盛りつけている秋が答えた。

「お料理はできていますが、お皿が足りません。せめてあと皿洗いのひとりでもいれば」

 連理は流し台の溜まったお皿を見てから、食器棚を開いて未使用の高価なお皿がいくつも余っているのを見て言った。

「たくさん余っているじゃないですか」

 すると水の音を超えて聞こえるように、弦が大声で言った。

「でも、それは宿泊のお客さま用で! 日帰りのお客さまがいつにも増して多いんです」

 秋は弦に続いて言った。

「さっきお弦とその話になって、使っていいかどうかわからないから若女将に聞こうってなりました」

「今日は五部屋埋まって三部屋空いていてお皿は八部屋分あります。大丈夫です。使ってください」

 弦はぽかんとしている。これを使おうという秋に対し、使わないほうがいいと意見したのは彼女だったのだ。

 秋は肩をすくめた。

「鶴の一声、かな」


 そのあともお雪が執拗に頼んできて、仕事にならなくて仕方ないので、しぶしぶ連理はふたりの通訳を務めることに承諾した。

「いいですね? 四半刻だけです。それが終わったらお部屋に戻ってください」

 お雪は目を輝かせてうなずいていた。


 そのころマグダレーネは旅館の音楽室でピアノを見つけ懐かしいきもちになり、ふと、無意識のうちに鍵盤に触れていた。

 子どものころを思い起こさせる、スクエア・ピアノの音色。

(こんなの、部屋にあったな……こんなに小さかったっけ)

 彼女は自然と、目頭が熱くなっていた。

(あのころから背はちっとも高くなっていないはずなのにどうしてこんなに小さく見えるんだろう)

 コンクールで使うようなグランドピアノに比べて、スクエア・ピアノは子ども部屋にもちょうどいい小さなサイズ。価格も手頃な家庭向けのピアノだった。

 それが彼女はいろいろな経験を積むにつれ、いつしかピアノといえばグランドピアノのほうを想起するようになっていたのだ。

(そっか。あたしの『世界』が大きくなったんだ)

 彼女はそれに気づいて、なぜだか無性に悲しくなり、目元を両手で押さえた。

(あたしの『世界』が大きくなって、いろいろなものごとを見る目が変わってしまった。あたしは……あたしの経験が、あたしの考えを縛っているんだ)


 連理とお雪が広い館内のあちこちでマグダレーネを探しているとき、西洋音楽の旋律が聞こえてきた。ふたりはきっとそこにいるのだろうと思い、音楽室のほうへと歩いた。

 その曲は初めに明るく楽しい印象のある音色が流れ、次第に不安なものに、暗く、陰鬱な音色に変わった。

 ちょうど演奏が終わるころにふたりは音楽室に着き、連理はたずねた。

「とてもお上手で驚きました。意外な特技があるんですね。なんの曲ですか?」

 マグダレーネは薄く涙の浮かんだまぶたを開き、ふたりに目を向けて答えた。

「ベートーヴェンのむっつの変奏曲。パイジェッロの『わが心もはやうつろになりて』が主題の作品」

 すると彼女は連理の知らない言葉で数節、なにかを悲しそうにうたった。

 それはオランダ語でも、ドイツ語でもなかった。

 お雪にはもちろん連理にもわからない。

 それでもその声色に込められた情緒は、連理にも、お雪にもしっかりと伝わった。

 連理はたずねた。

「なんと言いました?」

「ごめんなさい。イタリアの言葉」

「伊語も話せるんですね」

 マグダレーネはかぶりを振った。

「オペラの詩だけ。これは『わが心もはやうつろになりて』の歌詞の一節だから。独り言だよ。気にしないで」

 連理は彼女の赤く腫れた目元を見て、彼女の心境を察した。

「どこか、悲しい音色に聞こえました。さきほど演奏していた曲も、いまのあなたの言葉も」

「……レンリにもそう聞こえるんだ」

「ええ」

「言語は相対的なものよ。国によって、文化によって伝わったり伝わらなかったりする。でも音楽はそうじゃない。国境を、時代を越えても伝わる。音には感情が宿っているの」

「ええ……そう思います」

「これはきっと、人間の情緒をうたった作品。永遠の未来でも愛される作品……あたしはそう思うの」


 見慣れぬ『西洋婦人』の大胆な登場にお雪は興奮を隠せなかった。

「漣、紹介してくれ。彼女の名はなんと言うのだ」

 連理はいちおうマグダレーネに確認した。

〝彼女は雪。名前を聞いています〟

 マグダレーネはお雪に向いて答えた。

〝初めまして、ユキ。マグダレーネよ。レンリ、紹介して〟

「雪、彼女はこう言っています。『初めまして、雪。マグダレーネよ』」

 お雪はふんふんと耳を傾け、たずねた。

「マグダレーネさんと言うのか。楽器を弾けるのか?」

 連理が重ねるように通訳をし、マグダレーネは答えた。

〝ええ。邦でピアノを習っていたの〟

「すごい! ほかになにか特技はあるのか?」

〝んー……〟

 マグダレーネはあごに指をあてて悩んだ。

〝すこし医学を修めているよ〟

 それには連理も驚いた。

〝初耳ですが〟

〝この際だし〟

〝どんな分野を?〟

〝えっとね……循環器系、かな〟

 お雪はわからない言葉でふたりが話しているので癇癪を起こした。

「こらーっ! 漣、ぼくにもわかる言葉で話してくれ」

「は、はい。えっと、医学を修めているそうです」

「ほう。お医者さんなのか。まだ若いのに」

〝そういうわけでは〟

「長崎にはなにをしにきたんだ?」

〝へ!?

 マグダレーネは言葉に詰まった。まさかほんとうのことを言うわけにもいかない。

「幕府が西洋から学ぶためお抱えの文人を雇っているのは知っているぞ。つまり『お雇い外国人』というやつか!?

〝あ、あはは……ま、そんなとこかな〟

「なるほどな。ふむ、西洋医学を伝えるために……」

「お雪、まだ子どもですよ。いくら賢くてもそのためってわけでもないでしょう」

 連理が冷静につっこみをした。

「それもそうだな。そういえばマグダレーネさんはおいくつなんだ?」

 マグダレーネはどう答えようか迷った。まだ連理にも言ってないのだ。

〝……じゅ、一一歳〟

 連理はだいたいそれくらいだろうと思っていたから驚きはしなかった。ピアノや医学の知識は意外だったが、ちょっとくらい特技があってもおかしくはない年齢だ。それに彼女の両親が知識人だとは聞いていたから『医学を修めている』とは言っても、専門的なものではなく絵本かなにかを読み聞かせてもらったくらいのものだろうとも思っていた。

 お雪はあまり他人の年齢に興味がないのか、かえって驚いていた。

「一一!? ほう……西洋のご婦人はなかなか早熟なのだな」

〝なんのこと?〟

 お雪は彼女をピアノの椅子から立たせ、頭のうえを手で切って比べた。

「ぼくが四尺七寸だ。二、三寸はぼくのほうが高いな」

 それから彼女はマグダレーネの脇の下に遠慮なく手を指しこむと、胴回りに沿うように手のひらを滑らせた。

〝ななな、なにするの!?

「もうくびれがあるのだな。西洋では羊肉が主食と聞いたことがあるが、その影響か?」

〝……はあ? たしかに医学的には、食生活は成長に影響するけど……〟

「申し分ない。漣、彼女をぼくの部屋に連れてきてくれ。あと、せっかくなのでピアノも運んでくれると助かる」

 連理がぴしゃりと言った。

「お雪さん、それを言うなら彼女に、です」

「なに? 運ぶのが嫌なのか」

「彼女には彼女の意思があります。あなたが言うべきは『マグダレーネさん、ぼくの部屋にきてくれませんか』です。ピアノは短時間弾くだけなら無料ですが長時間の練習やデッサン目的での貸切は一刻一匁、最低三刻から。旅館からの持ち出しは厳禁です」

「う、そうか。最低でも三日はほしい。となると一日一二刻、三日で三六刻。ここで三六匁の出費は痛いが仕方ない」

「そうじゃなくて」

 マグダレーネはおろおろしている。

「ああ、そうか。そうだな、では改めて。マグダレーネさん、ぜひぼくの部屋にきてくれ。ぼくは『西洋婦人』の絵を描きたいんだ。きみにそのモデルになってほしい」

 連理が通訳をし伝えると、マグダレーネはこれまでのそこそこ長い人生でも初めての経験に心を動かされ、せっかくならとふたつ返事で承諾してしまった。

〝喜んで! 画家さんなんだね。そんなふうに率直に言われるのが珍しくてうれしい。それにあたしもいろいろ知りたいことがあるの。でも、若女将さんに黙って部屋に入っていいの?〟

 それは連理に向けられた言葉だった。それを聞いて雪もあごに手をあて思ったことを言う。

「それもそうだな。おぼろげだが、部屋を借りるとき名前を書いた覚えがあるぞ。勝手に部屋に連れ込んでいいのか?」

 連理はため息をついて答えた。

「ほんとはだめだと思います。とはいえお部屋の合鍵を渡している以上、いちいち確認しようがありませんから。聞かれたらだめ、とは答えますが、聞かれなければどうにもできません」

 雪は勝ち誇ったように胸を張った。

「つまりマグダレーネさんの同意さえ得ればいいってことだな! そして彼女はいいと言っている。はっはっは、三段論法だ。では行こう」

 マグダレーネは唇の端をもちあげた。彼女には連理にも伝えていない、そして伝えるつもりもない、ある考えがあったのだ。

 そういった態度はおのずと伝わるもの。

(マグダレーネ、なにを考えているの)

 連理は彼女の悪巧みに薄々感づいていたが、具体的になにがどうとまではわからなかった。

 だから彼女は、あやしいと思いつつしばらくはどっしりと構えて待つ心づもりでいた。

 それにそれは証拠のない、ただの直観でしかない。そんなことでいちいちひとを疑っていたらきりがないし、それ以上に不必要な警戒心と猜疑心は疑心暗鬼を生み、連鎖して周囲に伝播し、ただ単に相手に騙されることよりもずっと不幸な結果をもたらすことを、彼女は知っていた。