水無川旅館の入口で、小さな西洋の女の子が、傘をたたんで靴のまま騒いでいた。
連理がお愛を連れてそこに戻ると、そこには身振り手振りでいろいろと伝えようとする女の子と、言葉がわからず半泣きで、若女将を待つ稲がいた。
女の子は小判に似ているが、楕円ではなく真円に近い形状の金貨をもっていた。
〝この田舎者! これはいまや世界の覇権を握る大英帝国のソブリン金貨! この国のお金よりずっと価値のあるものなんだから! それを鋳造技術もなってない、大きさも形状も不揃いな小汚い辺境の金貨一枚と交換してやろうと言うの。感謝されても断られるいわれはない。いいから黙って換金してちょうだい!〟
連理はため息をついた。彼女にはこの女の子の言葉がわかったが、稲や愛にはもちろんわからない。
稲もまた身振り手振りで答える。
「お客さま、ここでは外国のお金は使えません。先に幕府のお役所で……」
女の子は連理を目にし、ほんのすこしだけ安堵した表情を見せた。しかしすぐにはっとし、もとの様子に戻って言った。
〝……らちがあかない。言葉を話せるものはいないの!?〟
それが自身への呼びかけだと気づかない連理でもない。
休憩室に少なからず言葉がわかるものも見られ連理はあくまで初対面のつもりで言った。
〝お客さま、お初にお目にかかります。水無川旅館の若女将の連理です〟
女の子は演技っぽく答えた。
〝オランダの言葉だね? わかるの?〟
〝はい〟
それから彼女は稲と愛に向きなおり、日本語で言った。
「ここはわたしに任せて、ふたりはほかのお客さまをお願いします」
ふたりは我に返って、どたどたと仕事に戻った。
連理はいきなり旅館をたずね金貨を見せびらかしてきたふしぎな西洋の女の子、つまりマグダレーネを休憩室に案内し、畳のうえの背の低い机のまえの座布団に、正座で座って彼女にも同じようにするよう言った。
「座ってください」
マグダレーネはどきりとした。
「ゆ、ゆ、床に座るの!?」
「みなさん最初はそうおっしゃいますが、平気ですよ」
「この、麦のわらのうえに!?」
「麦のわらではなくて稲のわら。あと畳と言いますが、はい」
「うそでしょ! あたしは絹のドレスの入手も困難なイギリスの農村で、羊の毛を織ったみすぼらしい服を着て、毎年せっせと泥まみれになって麦作のお手伝いをするような村娘じゃない!」
「郷に入っては郷に従え。さっきの大言壮語を聞くに、あなたはきっとたいそう生まれのいい『箱入り娘』さまなんでしょうね」
マグダレーネはそれでもしばらく嫌そうにしていたが、やがて観念したようにスカートの裾をつまんですこしもちあげて、連理を真似して座布団からはみださないよう慎重に、すこし足を崩して横座りをした。
「畳も汚くありませんから、平気ですよ」
「あ、足の裏をつけるところに座るのは抵抗があるの。失礼かな」
「いいえ、失礼ではありませんよ。失礼と言うなら、あんな言葉をかけるほうがよっぽど失礼です」
「……かっとなったの」
「今度から気をつければいいですよ」
「でも、旅館だって言うならこのお部屋に入るのもお金がいるでしょう? あたし、まだこの国のお金を持ってないの。もちろん払う気はあるんだよ」
「いいえ。ここは無料です」
「……いい顔してこんなところに連れ込んで、あとで多額のお金を請求するつもりなら、遠慮はいらない。ぼったくられる覚悟はもう済んでるの。早く値段を提示して」
「話を聞いてください。ここは無料です」
「あたしも商家の娘。勘所はわかる。こうやってよくされると余計不安になる。〝只より高い物はない〟愛想よく近づいてきたひとに騙されて、あとあと痛い目を見てきたんだ」
連理はそろそろいらいらしてきた。
「同じことを何度も言わせないでください。こ、こ、は。無料です。聞き取れました?」
「ええ、こ、こ、は……無料です。無料? えっ、どうして!?」
「はるばるこんなところへやってきたのですから、すこしくらいくつろいでいただくためです」
「……だからこそ、じゃないの? だって疲れ果てた登山者たちなんだから、払わざるを得ないでしょう。そういうところにこそ、お金を払う要素を置いておくものじゃない?」
「うちはそんなあくどい商売はしませんよ」
マグダレーネの頭のなかに疑問符が浮かんでいた。
「機会損失もいいとこじゃない。もっと戦略的にならないと覇権を握ることはできない。いまの大英帝国は、かつてオランダ東インド会社が押さえていた東洋との貿易拠点を占領したからあるものでしょう? いま世界を牛耳るは『イギリス東インド会社』それが時勢ってもの。〝貿易の要所を押さえる〟それが勝利の秘訣。それが大交易時代の常識。東洋の田舎娘は、そんなことも知らないの?」
連理はすこしかちんときてしまった。
「あのですねえ……」
それからしばらく、連理とマグダレーネはそこでお互いの身のうえの話で盛り上がっていた。
連理は彼女に言った。
「家柄、でしょうか。わたしは幼いころから〝信頼〟を大切にすることを教わりました」
マグダレーネはしばらく、急須から湯呑に注がれた苦味の強いお茶を、緑色のコーヒーだと思ってちょびちょび口をつけて聞いていた。
「〝驕る平家は久しからず〟平家物語にあるように〝盛者必衰〟です。どんな実力者でも〝信頼〟を失えば必ずあわれな末路を迎えます。和蘭海上帝国も衰え、いまや大英帝国が世界の筆頭にあることは、わずかな書物を通してですが伝わってきます。でもその英吉利も、新世界の一三植民地の同盟に敗北を喫している。亜米利加合衆国に加盟する州は日進月歩で増え続け、昨年の冬にも準州が昇格し、一九番目の州が成立したと聞いています」
マグダレーネは連理が東洋における高貴な娘だとはわかっていたつもりでいたが、西洋のことは言葉を話せるくらいで歴史などはあまり知らないと思っていたので、思ったよりもずっと知識人なのだと話していて身に染みてわかりつつあった。
とくに新世界――ヨーロッパから見たアメリカ大陸――のことは、マグダレーネもじつのところあまりよく知らなかったのだ。
「レンリは、どうして新世界のことをそんなに詳しく知っているの?」
「和蘭商館の商館長にドゥーフさんというかたがいらっしゃいまして……」
「ふうん。どんなかたなの?」
「……和蘭の本国との連絡がとれなくなってから、当然のことかもしれませんが和蘭商館は貿易ができなくなってしまいました。貿易をするために出島にいることを許可しているのですから、貿易のできなくなった商館なんて幕府にとっては邪魔者でしかありません。そんなとき商館長のドゥーフさんが機転を利かせ、当時の欧州の戦争と中立を保っていた亜米利加を頼ったことで、貿易を続けることができたんです」
「ふうん。そうなんだ。それで新世界のことをよく知ってるんだね」
マグダレーネは長崎のことには疎くそんなことがあったことを知らなかったし、あまり興味もなかった。
それに彼女にとって、新世界は田舎未満のつまらないところだった。服のひとつも満足につくれないような原住民がどうぶつの毛皮を身にまとい、狩猟や採集で日々の糧を得て暮らしているところを、スペインやポルトガルの上流階級に任ぜられ、危険をかえりみず挑戦せざるを得ない下級の貴族が開拓した土地だ。コロンブスの時代からもう三〇〇年も経ち、大陸が探検しつくされても資源のひとつも見つからない。ヨーロッパを追放されたわけありの人々が集まる〝新世界〟なんて名ばかりの地の底のような世界だ。
それよりはむしろヨーロッパでは高価な絹の着物を、街中みんなが着ているこの東洋の国々の、何千年にも渡る長く神秘的な歴史のほうに興味があった。工業化が進んでいないのも、彼女にとっては失われた自然の豊かさと、かつてバイロン卿に聞かされたような、西洋の人々が失ってしまったロマン主義的な〝人間の情緒〟を思い起こさせるような気がして、とても魅力的に思えた。
だからマグダレーネにとって、連理の言葉はそのひとつひとつが新鮮な驚きだった。
「……もし〝盛者必衰〟が世の常なのだとすれば、大英帝国だっていずれ衰えるでしょう。そのつぎに台頭する国がどこかは、わたしにはわかりませんが……」
マグダレーネはくすっときてしまった。
「そんなのありえないよ。大英帝国がいまどれほどの植民地を支配しているか知ってる?」
「すべてではありませんが」
「じゃ、賭けよっか。未来がどうなるか」
連理は賭け事が嫌いなわけではないが、まさかお客さまとするわけにもいかず、ふたつ返事で『はい』とは答えられない。とはいえ旅館の若女将としてお客さまの話を聞くのも仕事なので、愛想よく答えた。
「なにをですか?」
「なにを、ってほとじゃないけど……あえて言うなら〝誇り〟を」
連理は迷った。彼女の立場としては、ほかのなにを賭けるよりも〝誇り〟を賭けることは難しいことだ。
それは彼女にとって、単なる自尊心の問題ではない。世間は狭い。街中が顔見知りだ。〝誇り〟を賭けて負けたことを言いふらされれば家の名に傷がつく。そうなればお客さんも減り、収益も減り、経営に影響する。いずれは旅館の存続さえ危うくなる。〝誇り〟を失えば〝信頼〟を失い、身を亡ぼす結果になる。〝誇り〟を賭けることや〝信頼〟を失うことは、彼女にとってそれほどの重さがあることなのだ。
とはいえ断るのも、その時点で〝誇り〟を失ってしまうことではある。
もちろん、マグダレーネがそこまで深く考えて〝誇り〟を賭ける、などと挑戦してきたわけではないということも、連理にはわかっている。もしこれが日本の、名門の家の娘の言葉なら警戒したが、マグダレーネにはそのような裏の意図はないだろう。
しかし当然、裏の意図がある可能性もある。そんなことは確かめようがない。
確かめようがないことは〝信頼〟するしかない。
(信頼は『卵と鶏』です。相手に〝信頼〟されることは相手を〝信頼〟することからしか始まらない。相手に〝信頼〟されたと実感できて、初めて相手を〝信頼〟しようと思えるんです)
連理はマグダレーネが、このことで旅館の名前を傷つけるような愚かな行動をとることはないと彼女を〝信頼〟することに決め、答えた。
「……いいでしょう」
マグダレーネはにぃっと八重歯を見せた。
「あたしは大英帝国は永遠だと思う。根拠があるの」
「それはなんでしょう」
「それを言っちゃったらレンリの判断に影響するかもしれないでしょ。まずレンリの考えを聞かせて」
「それもそうですね。わたしは……滅びるとは言いませんが、永遠ではないと思います」
「ふうん。でも、なにかしら基準を設定しないといけないよね。でないとどれだけ時間が経っても『まだ時間がかかる』って言い訳できるもの。具体的には何年くらいで衰退すると思う?」
「そうですね。まあ、わたしが生きているあいだはさすがに安泰だとは思いますが……二、三〇〇年、でしょうか」
マグダレーネはにやにやしている。彼女にはある考えがあったのだ。
連理はそのことに気づき、不審そうにたずねた。
「なにか変なことを考えていますね」
「あ、わかる?」
「ええ。悪巧み、って顔です」
「そんなことないよ。ただそれくらい経って確かめられたらいいなって思っただけ」
「どうやってです? まさか二、三〇〇年も生きる、なんて言いませんよね」
マグダレーネの意地悪そうな笑みに、連理は妙なものを感じ、くぎを刺すことにした。
「契約書を書かせて子孫に確かめさせよう、とかそういう要求には応じませんよ」
すると彼女は目を丸くして驚き、次いでけたけた笑った。
「そんなこと考えてないよ。でも、ま、そんなとこ。契約ってほど厳密なものでなくてもいいと思うんだ。ちょっと、たとえば、木の幹にでもそういうこと彫ってみない?」
「遠慮します」
連理は即答したあと、すまし顔でたずねた。
「で、根拠というのはなんですか」
「それはね、さっき見せたと思うけど、このソブリン金貨だよ」
マグダレーネは真円の、イギリスの一ポンドに相当する価値をもつ金貨を見せた。
連理はその価値を知らないが、高価なことはわかっているので触ろうとはしなかった。
それをマグダレーネは手のひらで転がして言った。
「ここにくる途中でインドに寄ったんだけど、そのときイギリス東インド会社にお世話になって換金してもらったんだ。珍しくてきれいな金貨だし、あたしはこれからの時代では、大英帝国の側にまわるのが『勝ち馬に乗る』ってものだと思うからね」
「はあ。それで、そのソブリン金貨はどういうものなのでしょう」
「よくぞ聞いてくれました。これはいままでの金貨とはぜんぜん違うものなの。見た目は似ててもね、その価値が違うの。これは『金本位制』という制度で、その価値が保障されているんだよ」
連理はその言葉を、西洋の貨幣理論の書物で読んだことがあった。
「国際取引において『金の絶対的な価値』を前提として、含有する金の価値と額面の価値が等しい本位貨幣ですね」
「そう! つまりいざとなったら、異国の地でもこのソブリン金貨を融解してしまえば、一ポンドに等しい量の金が得られる。大交易時代では世界中で商売しなくちゃいけない。でもそれぞれの国々で貨幣の価値が違うものだから商人たちは困ったんだよ。そこでこの『金本位制』の登場ってわけ! 〝お金〟の価値はそれぞれの国で違うけど、金の価値は世界中いっしょ。『信頼』できるものはいつでも〝金〟だけってこと!」
連理は彼女の熱弁になにか感じるものがあったが、若女将として、反論せず静かに彼女の考えに耳を傾けていた。
マグダレーネは続けた。
「大英帝国がオランダの艦隊を打ち破ってから世界の覇権を握る地位に立っていることはだれの目にも明らかだよね。そこでこの国際取引の障壁を取り除く『金本位制』の採用。それが去年のこと。これからどんどん成長するに違いない! これまで大陸から隔絶され絹の道にも海上の貿易路にも恵まれなかった島国のイギリスにだれが注目していたと思う? 番狂わせのダークホースの上がり馬! まさに〝鯉の滝登り〟! いまロンドンを中心に世界は激変しつつある。二、三〇〇年くらいじゃ、とうていこの地位が揺るぎはしない」
連理はため息をついた。
「……〝及ばぬ鯉の滝登り〟ですね」
その反応に、マグダレーネはがっかりした。
「どうしてそう思うの?」
「すでに亜米利加合衆国が独立してるじゃないですか」
「些細なことだよ。歴史が浅いもの。一時的なもの。すぐに再征服される。それこそ二、三〇〇年以内に」
「わたしはそうは思いません」
「どうして?」
「……大英帝国は、植民地における〝信頼〟がないからです」
その言葉に、マグダレーネはおかしくなって気が抜けてしまった。
「そんなもの、経済と戦争の力でどうにでもできると思う。いままでの歴史はただ単に、戦略が甘かった。広大な領土を維持するだけの経済的な基盤がなかったんだよ。大英帝国は戦争で勝って、今度は経済で勝とうとしている。この戦略で負けるはずがない」
「それは〝信頼〟の力を甘く見すぎです。世界はいつだって〝信頼〟でまわっています。力や富、領土は数年、ひょっとしたら数ヶ月で得ることができるかもしれません。でも、その土地で〝信頼〟を得るには少なくとも数百年、へたしたら数千年かかります。『金の価値は絶対』と言いますが、それだってわかりません。取引相手が『金の価値』に共通の価値を見いだしてくれると相手を〝信頼〟しているからこそ『金の価値は絶対』と言えるんです。相手を〝信頼〟し、また相手から〝信頼〟されなければ、金なんてただの石ころです」
マグダレーネはその理屈に一定の筋の通ったものを感じたが、同意はできなかった。
「金に価値を感じないひとなんて、この世にはいないと思う」
「……それは、あなたが他者をある種〝信頼〟しているからだと思います」
「中らずと雖も遠からず、かな。あたしは他者を〝信頼〟はしてない。でもお金や金、それから〝利害関係〟にあるひとは信頼してるよ。でもそれはあくまで金への信頼。金の絶対的価値が人間の〝利害関係〟を生み、その〝利害関係〟が人間の行動を縛る。だから〝利害関係〟は信頼できるの」
「それは違いますよ」
連理はきっぱりと否定した。
「そんな絶対的な価値のあるものなんて、この世にはありません。〝信頼〟があり、それが金に価値を与え、結果的に〝利害関係〟が生まれるんです。あなたはまだ幼いですから仕方ないと思いますが……人生経験を積めばわかります。仕事だって相手を〝信頼〟して初めて任せられる。〝信頼〟のないところに〝利害関係〟なんて、もとより発生しようがないんです」
マグダレーネは軽く見られたような気がして、すこし不快に感じた。
「あたしはあんまりひとを〝信頼〟しないけど〝利害関係〟はほとんどいつもあるよ」
「あなたはまず、他者を〝信頼〟していること、そして〝信頼〟され助けられていることに自覚的になるべきですね」
「……あたしが、無意識にだれかを〝信頼〟してるって言うの?」
「はい。たとえば、わたしのことは〝信頼〟してくれていますよね」
「まっさか! わかってるでしょ。あたし、レンリにぜんぶ話してるわけじゃない」
「でも部分的には話してくれていますね」
「そりゃ話しても不都合がないこと、そして話すことで〝利害関係〟を調整して相手より優位に立てることは話すよ」
「……わからないならかまいませんが……第一、金銭的でない〝利害関係〟なんてこの世にはいくらでもあります。恋愛における三角関係なんて、まさにそうじゃないですか。〝信頼〟の奪いあいが〝利害関係〟を発生させることもあるんです。これはどう説明しますか?」
マグダレーネは答えに詰まった。
「……非合理的な行動をする愚かなひとは、完全に予測不能ってだけ」
「合理性は人間の側面のひとつではありますが、すべてではありません」
「ふうん。じゃ、レンリに言わせればその〝信頼〟とやらが先で、お金はあと。こういうわけ」
「はい。〝信頼〟のないものは、長続きしない。それが〝盛者必衰〟ってことです」
マグダレーネは不満を感じたものの、反論はしなかった。
「じゃあレンリはいつか大英帝国が植民地を失って、衰退すると思うんだね……その〝信頼〟なんてあやふやなものがないばかりに」
「……ええ」
それからマグダレーネはすこし過去を思い返していた。
彼女は商家の生まれで、思えば幼いころ、両親にも〝信頼〟の大切さというものを耳に胼胝ができるまで教えられた。
さきほどの連理との会話で彼女はそれが懐かしくなり、ふと彼女に言った。
「レンリ、あたし、じつは商家の生まれでね……」
連理はおとなしく聞いていた。
「……同じことを両親にも聞かされた。当時は、どういう意味かよくわからなかったけど」
「きっとよいご両親だったのでしょうね」
「きっと、ね」
マグダレーネは考えていた。
(……あたしがヨーロッパを離れたのは、あたしがいつも裏切られてばっかりで他者を〝信頼〟できなくなったから。〝信頼〟できない相手とは一緒にいたくないし〝信頼〟できないところには長く身を置けない。〝盛者必衰〟……あたしはほんとの意味で〝信頼〟できる相手なんて、きっとこの世にはいないだろうと思ってたけど……)
このとき、マグダレーネは連理のことが徐々に気になり始めていた。
「ねえレンリ、よかったら、レンリのご先祖さまのことを教えてくれない?」
「ご先祖さま、のことですか」
「その、戦国時代の水無川の巫女のお話」
「……そうですね。わたしも正直、ほとんど伝説上の人物としてしか知らないのですが……」
連理は静かに語り始めた。
「もともと水無川の巫女は平城京の出で平安時代に平安京に社を移したそうです」
「地名がわからない。教えて」
「いまは奈良や京と呼ばれるところです。実際、奈良や京にも水無川の名を冠する神社があるそうです」
「思ったより歴史が長いんだね。行ったことあるの?」
「いえ。でも、いずれ見学したいとは考えています。それに……京に居を移すことも、すこし考えています」
マグダレーネはぎょっとした。
「旅館はどうするの!?」
「本気にしないでください。もちろんこの旅館には跡継ぎが必要です。ただ……個人的なことですが、もうすこし近代的な世界を知りたいんです。すこしでも、休暇ができれば……」
マグダレーネはこれまでの彼女の学識と、この地に縛られているという彼女の生い立ちを聞いて、どうにもいたたまれないきもちになってきていた。
連理はさらに続けた。
「戦国時代には豊臣氏に味方して、大坂の陣で敗退し……長崎に逃れたのが、ちょうどいまに至る徳川幕府の始まりの時代だと言われています」
「ふうん。戦国時代ってことは、戦いがあったんだよね。負けちゃったの?」
「歴史の話ですから、ほんとかどうか知りませんが、伝説をそのまま読めばそうですね」
「じゃあレンリにとって幕府は敵なんだ」
「いいえ、わたしにとっては敵ってわけではありませんよ。ご先祖さまがどうあれわたしはわたしです。でも、家系はそうなのかもしれません。平民に身をやつしたのもちょうどそのころだそうです」