連理が食材を届けるのが若干遅れたことと、どういうわけかこの日にかぎってお客さんが多かったため、旅館は大忙しだった。
従業員の半数は母屋にいて、連理の管轄する離れには一二人しかいない。それも繁忙期の最大人数。今日は仲居さんがふたり、調理係がふたり、受付さんと図書室の司書さん、購買部の売り子さんと清掃係の八人。連理をあわせても計九人しかいなかった。
やはり歴史の違いと新築ゆえの価格差は重く、離れのほうが母屋よりも豪勢だが、離れより母屋のほうが平均的なお客さんの人数は多かった。旅館の従業員二七人のうち、母屋に一五人いるのはそのためだ。
とはいえひとりあたりの単価が大きいため、売上はとんとんといったところだった。
忙しい主な理由は和蘭商館のお祝いということで急に商館からひとが集まってきたことにあったが、それでもいつもならこの人数でも問題なかった。それがこの日にかぎって、旅する絵描きのお雪が江戸から戻ってきたことで人数が慢性的に足りない状態にあった。
「若女将、お雪さんが離為火のお部屋にいらっしゃいます」
連理が旅館に戻ったとき、若い仲居の稲が泣きそうな顔で助けを求めてきた。
「ああ……」
連理はそれで察しがついた。
「お愛さんがお相手してますけど、ほかのお客さままで手がまわりません」
「……わたしが出ます。厨房に食材を届けてください」
連理は着物を外行の動きやすいものから若女将としての立派なものに着替え、軽く化粧をした。その間わずか一五分。
廊下を小股で小刻みに歩き離為火の部屋へ行く。
「失礼します」
連理は軽く戸を叩き、返事がないことを確認すると即座に躊躇なく部屋に入った。
本の間で、仲居のお愛がフランスの帝政様式と思しき西洋の衣装を着せられ、島の全景から水平線までが見渡せる大きな窓を背に、表情のひとつに至るまで微動だにせず、じっと座布団のうえで艶めかしいポーズをとらされていた。
そこからすこし距離を置いた場所に、どうやってこの登山道で運んできたのか身長ほどの高さもある画架が置かれており、雪が愛の姿を見てデッサンをしていた。
お雪は後ろ側がうなじが見えるほど短く両側が耳とあごの線を隠す長さの黒髪で、西洋からの輸入品の眼鏡をかけた小柄な女の子。着物は内でも外でも、どの季節でもかまわず浴衣みたいに着替えと洗濯と持ち運びが楽な軽いもの。お雪はそれを『合理的』と言うが連理にはどうも『だらしない』と思えて仕方がなかった。
「お客さま」
連理は遠慮なく雪の斜め後ろから声をかける。
そのとき集中力が乱され筆が揺れたことが原因で、雪は振り向いて怒鳴った。
「なんだね、きみは。いいところなんだ。邪魔をしないでくれたまえ」
連理は臆することなく答える。
「それはこちらの台詞です。愛、着替えて仕事に戻りなさい」
愛はおろおろしている。言葉をだすために口を開くことはおろか、目をうろうろさせることもできない。
雪は眼鏡をはずし、目を細め顔を近づけて連理の瞳をじいっと見て、気づいた。
「きみは漣だな。水無川旅館の……」
「ええ。いまは連理、と名乗っています」
「ああ、元服したからか! 諱というやつだな」
「そういうわけでもありませんが……まあ〝理〟の字は水無川の家の娘の通字と言えるかもしれません」
「連理……ふたつの樹木の木理が連なることを意味する言葉だな。〝連理の契り〟と言うように、長く連れ添うそのさまは、まさしく運命に導かれ繋がれた仲睦まじい男女のようだ。縁起がよくて、いい名前だ」
連理はすんとした顔で答えた。
「ありがとうございます」
「そういえば水無川神社の御利益も縁結びだったか?」
「残念ながら巫女には縁のひとつもないようです」
「あははは! 幼馴染の三人のうち、結局恵まれたのは瀧だけだな。年上だからって油断して、もうこんな歳になってしまった」
「西洋では〝求めれば与えられ、探せば見いだせる〟と言います。みずから求めも探しもしないものがそう都合よく現れたりはしませんよ。神社で願うだけじゃ、だめなんです」
雪はおなかをかかえて大笑いした。
「まるで巫女の言葉じゃないな」
連理はつんと答えた。
「現実主義なので」
「そうだな……きっと〝求め、探した〟のは瀧だけだったんだろうな」
雪は遠い世界を見るように言った。
「そうですね。でも、できるかぎりの行動をすべて終えたあとに〝人事を尽くして天命を待つ〟ためなら意味のあることだと思います。それですこしでも安心できるなら、きっとその余裕が態度にも表れ大願成就に繋がることもあると思います。願いを叶えるのは自身の力。でもそのための自信をもつために頼れるなにかがあることは大切です。水無川神社の御利益は、その過程での頼れる相手になることです」
雪は連理の言葉を聞いて、ぽけーっとしていた。
「……まるで漣を表すような言葉だな」
「そうでしょうか」
「そう思う。ただ、それにしても、巫女が西洋の教えにならっていいのか? ご法度だ。幕府に知られたら、ただじゃあ済まないぞ」
「自分を知るには相手を知る。相手を知るには自分を知る。それだけです。信じるのではなく、ただ参考にすればいいんです」
「だがな……」
「ご心配、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。書物などはありませんし、禁令に触れるようなことはしていません。ただ西洋のみなさまとお話をしていると、自然と耳に入ってくるものです」
「……灰色で、心配だぞ」
「平気ですよ。というかこういう会話、去年もしませんでしたっけ」
「そうだっけか? 記憶にないな」
「お雪のことですから、そうでしょうね」
「漣とは一年ぶりかな? こんな辺境の山奥で再会し、またこんな楽しい話をすることになるとはおもしろい偶然もあるものだな。まえはこう、転んで皿を割ってはそのたび女将に叱られるようなちんちくりんだった。まさに〝光陰矢の如し〟男子三日会わざれば刮目して見よ! 見間違えたぞ」
「男子じゃありませんし偶然でもありません。雪、ここがどこだかわかっていますか?」
「……たぶん、旅館だ」
「なに、旅館?」
雪は深刻そうに考え込んでいたが、やがて気づいた。
「ああ、ここが水無川旅館だったか!」
「そうです。またふらふら歩いて、自分の居場所もわかっていないみたいですね」
「ぼくがいるところがぼくの居場所だ。いちいち名前など憶えている必要はない」
「定義的にはそうですね」
「ともかく、だ。ぼくは来週には京に発つ予定なんだ。和蘭商館にやってきた西洋婦人。彼女がどんな姿をしていたかを江戸に伝えるんだ。あいにく忙しいようで都合があわず、代わりにここでお愛に頼んだんだ。合意も得た。仕事の邪魔をしないでくれ!」
「愛はうちの大切な従業員です。都合があわないのは彼女も一緒。愛はまだ〝断る〟のがへたなんです」
それから連理は愛に言う。
「愛も愛です。断るべきときにはきちんと断らないといけません」
愛は驚いて謝罪する。
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいから、早くつぎの行動に移る」
それから連理はふたたび雪に向かう。
「雪、お客さまはあなただけじゃありません。絵の参考にするならほかをあたってください」
「それは無理な相談だ。彼女を見たとき、びびっときたんだ。商館で仕入れたこのふしぎな衣装が似合う女性は、全世界を探してもきっとこのひとしかいないだろう、ってね」
「西洋の婦人衣装なんだから西洋にはたくさんいるでしょう」
すると雪は虚を突かれたような顔をした。
「……それもそうだな。となると明日にでも西洋に行く船に乗るべきか? しかし出国するには幕府の……」
「そんな御託はいいですから。じゃ、愛、そういうことなので。行きなさい」
「あ、あ! 待ってくれ、頼む……」
愛は終始おろおろしていたが、若女将の直接の言葉に優先するものはこの旅館にはない。彼女はつぎの間に移って戸を閉めると、フランスの帝政様式の衣装から旅館の着物に着替えそそくさと部屋からでて、仕事に戻った。
その後連理は雪のだべりにすこし付き合うことになった。
「……つまりだな、衣装というのは体格や骨格によっても左右される以上、ひとそれぞれ似合う衣装と似合わない衣装というのは違うんだ。考えてみれば当然かもしれないがな」
「ええ、そうですね」
「お愛さんは小柄で、ほどよく肉付きがいいだろ? ぼくは髪も邪魔で短くしているし、体躯も男の子みたいに骨ばっかりで婦人衣装って柄じゃない。それから漣はこう……武者のようだ。うまく言えないが」
「それは鍛えていますし、毎日山道を歩いていますから。よく言われますよ」
「そう、つまりあの衣装を着るには、まさに『箱入り娘』というような淑やかさがないといけないわけだ。なんというか……漣のように戦場で戦う武人のような強気な娘には、似合わない、とは言わないがそうじゃないというほど、かわいすぎる衣装なんだ」
「……」
連理は眉をぴくぴくさせていた。
「じゃあ、わたしにはどんな衣装が似合うと思いますか?」
「そうだな……」
雪は座禅を組んで考え始めた。
目をつむり、やがて彼女はひとつの結論に達する。
「……鎧。鎧だ!」
「はあ?」
「武人であるからには鎧を着るものだろう。いや、待てよ。それはいくさのときの話だ。むしろ平時の高貴な殿方のように、飾り気のない軽量な薄い着物と足運びに都合のいい袴で帯に打刀でも携えていれば、きっとさまになるだろう!」
「……」
連理はあきれてものも言えなかった。
「そうだ、袴と言えば巫女装束の緋袴があるではないか。あれなど動きやすくて戦いにはちょうどいい。なんという偶然だ。漣は巫女でもあったな!?」
雪はどんどん興奮気味になって続けた。
「そして家紋の入った陣羽織でも重ね着し、馬を駆けさせ弓でもひいた日には、戦国時代に旗を揚げ、全土にその名を轟かせた武士のごとき貫録をもつにいたるだろう!」
お雪は座布団から立ちあがって大げさに落ちのない落語を演じると、そのときの衝撃でおなかを抱え、なにか苦しそうにうめいてうずくまってしまった。
連理はどう答えたか迷ってしまったが、それ以前にお雪がどうにも体調が悪そうなのが気になってしまった。
「よくわかりませんが、とりあえず、お褒めの言葉と受け取っておきます。それより平気ですか。具合が悪そうですよ。どうしました?」
雪は連理のその反応と、大げさな動作が身体に響いたことで興奮が収まり気味になってしまった。彼女はつらそうに答えた。
「なんだ、のりが悪いな。漫才というのはぼけとつっこみがいてだな……」
「漫才だったんですか。というか平気ですか?」
「気にしないでくれ。最近、胃腸の調子が悪くてな。深呼吸すればなおる。すう、はあ」
「そう言うなら気にしませんが、お薬の在庫は旅館にあるので、いつでも言ってくださいね。食中毒なんて言われたらこちらが困ります」
「はは。そうだな。そら、なおった。そういえば江戸のほうで最近落語がだいぶ流行っていてだな」
「はあ……」
そのとき戸が開かれ愛が現れて、あわただしく連理を呼んだ。
「わっ、若女将! 助けてください。和蘭のお客さまがお見えです」
連理はそれがだれだか察しがついていたが、あえて知らぬふりで答えた。
「どうしました? ご予約があれば手順書通りにお願いします」
「それが、ご予約していらっしゃらないようで。迷子でしょうか。小さな女の子でした。案内しようとも、言葉がわかりません」
連理はため息をついた。
「……わかりました。行きます。お雪、というわけでしばしはずします。ごめんなさい」
雪はその場でぽかんとしていたが、その会話を聞き流したわけではない。彼女はいつも直観的に行動しているので、たとえ会話の内容を理解せずともつぎの行動は無意識のうちに決まっていた。