サンディエゴの深夜、買い物に行くと言ってミアはヴェリティのもとを一時離れ、慎重に追跡されていないかを確認したうえで、本部にシルバー・バレットの真意を報告した。
《長官、夜分遅くに申し訳ありません、重大な報告があります。シルバー・バレットの真の目的は海賊航路にあります》
バージニア州から長官は答えた。
《なぜシルバー・バレットと海賊航路が関係する》
《シルバー・バレットのこれまでの活動のすべてを知ったわけではありませんが、とかく今回の件に関しては、シルバー・バレットと連邦捜査局は対立関係にはないと考えます。シルバー・バレットは海賊航路に迫るために、クイーン・オブ・ダイアモンドを狙っているのです》
長官は黙していた。
《……シルバー・バレットのとる手段は褒められたものではないかもしれません。でも、その目的は……》
《そこが肝心なところだ》
長官は言った。
《シルバー・バレットが褒められた手段をとらないのであれば、もしそれが結果的によいなにかをもたらすのだとしても、そういった行為を当局が肯定することはできない。もしそれを肯定すれば私的制裁が横行し、世界は無秩序な自然状態に回帰してしまうだろう。どんなに時間がかかろうと証拠を集め推定無罪の原則で行動するのはそのためだ。そしてそれが、連邦捜査官に求められるもっとも重要な資質だ》
ミアはあまり説教されることが好きではないが、それ自体は正しいことでたしかに、と感じた。
《ウェストンくん、きみは立派に働いた。昇進を焦るのもわかる。だが独断専行は避けたほうが無難だろう。きみに任せるにはことが大きすぎる。本部へ帰投せよ。あとは本部に任せたまえ》
ミアはそれを聞いてかあっとなった。
《長官、あたしはまだやれます。シルバー・バレットはせっかくあたしのことを信頼していろいろ話してくれています。海賊航路の謎だって解き明かして見せる。見ていてください。あとで驚いたって、知りませんから》
ミアはまだ若く自信と劣等感というものが半々にあり、それが彼女をより大きな世界へ踏み込ませ、冒険に挑ませる努力と挑戦心の源になっていた。彼女は口にはださずとも、心のどこかで同年代では平均以上の実力があると自負する尊大なところがあり、一方で常に周囲への劣等感に苛まれてもいた。要するに彼女は人並みに競争心が旺盛だったのだ。
それが彼女を長官の帰投命令に背かせる理由の半分だったが、もう半分はそうではなく単に、彼女がヴェリティという人間に興味を持ち、だんだん惹かれつつあったからだ。
ミアは職務上も彼女自身の考え方としても、どちらかというと、ヴェリティのすべてを肯定するつもりはさらさらなかった。しかし、他者との関係性における基本的な価値観が似通っているところに共感してもいた。
ミアは連邦捜査官で、ヴェリティはなにか悪行を働こうとしている捜査対象という関係ではあるが、それはミアにとってもヴェリティにとっても、敵対関係だとか相手に与してはならないとか、そういうものではなかった。もし目的や利害が一致したならば、ミアもヴェリティも、お互いの立場によらずに必要に応じて一時的に協力して目的を達成すればよいのだし、それによって仲間意識や信頼関係といったものを育んだり大切にする必要は一切ない。それは単なる契約であり、相手に感謝をする義務も、また感謝を求める権利もない。
ふたりにとって協力関係というものは、信頼だとかそういうあやふやなものに縛られるものではなく、目的のために結成され、それを達成すれば解消される一時的な利害の一致に過ぎない。
それがふたりが共有する基礎的な世界観。そういう点で似通っているふたりは心の深い部分で知らず知らずのうちに共鳴していた。
ヴェリティはホテルでミアの帰りを待っていた。ツインではなくダブルしか空いた部屋がなかったため、ふたりはひとつのベッドに枕をふたつ並べて眠らなければならない状況だった。ヴェリティがそれでよいかとたずねたときミアがそれに同意したのは単に経済的な理由もあったが、それ以上に、このヴェリティという女性のひととなりというものに、まんざらでもないものを感じつつあったからだ。
つまり、ヴェリティの行動原理は非常に単純素朴で、得になることをするし、損になることをしない。得にならないことはしないし、損にならないことはする。それだけだ。
たとえば一夜をともにしてヴェリティがミアに不利益をもたらすような行為をすることで得られる利益と彼女が被る可能性のある不利益を天秤にかければ、ヴェリティがそんなことをするはずがないという結論は、非常に合理的な帰結として得られる。
そしてそういった合理性をミアは大切にしているし、ミアから見て、ヴェリティは非常に合理性に対して素直かつ実直な人物で、ミアが合理的だと考えすることは彼女も合理的だと考えするし、ミアが非合理的だと考えしないことは彼女も非合理的だと考えしない。
もちろんいろいろな立場や前提の違いから完全に同調はできないものの、ヴェリティが非合理な行動をとらないということは他者を信頼しない生き方を選択したミアにとって、彼女を近くに招きいれても安全だと考えられる、信頼できる行動規範だったのだ。
ヴェリティはミアに余裕の表情でたずねた。
「FBIへの報告は、済んだのかしら」
ミアはつんと答えた。
「わかってるなら、わざわざ聞かなくてもいいのに」
「で、なんて報告したの? ついにわたしを捕まえる証拠を見つけたとか」
ヴェリティはどういうわけかわくわくしているようだった。
ミアにはヴェリティの考えていることがよくわからない。見つからない自信があるようにも見えるし、なにも考えていないのかもしれない。
ただ尻尾を見せないところにはしたたかさがあるとは感じていた。
「海賊航路に関することです。シルバー・バレットの真意はそれだと」
「ふうん」
ヴェリティはにやにやしている。
「ミア、ここで改めて聞いてみるわね。協力してくれない?」
ミアはそろそろ話くらいは聞いても悪くない、すくなくとも、損はしないかな、というきもちになっていた。
「内容によります。同意するかはわかりませんが、聞くだけなら聞きますよ」
「やった! ありがたいわ。なにしろ人手が足りないの。わたし、じつはオークションの当日、やることがあるのよ」
「じつはというか、クイーン・オブ・ダイアモンドを『頂戴する』つもりなのでしょう」
「ええ、ええ、でもね、海賊航路の調査もしたいの。わたしが分身できればそれに越したことはないけど、できないでしょ。そこでミアにそれをお願いしたいの」
ミアにも考えるところがあった。
(シルバー・バレットと海賊航路……手柄としては……きっと、海賊航路のほうがはるかに大手柄だと思う。ひょっとしたら連邦捜査局より、裏の世界に精通した彼女のほうが詳しいのかも。だったら……)
ひとしきり考えを巡らせて、ミアは答えた。
「実際するかどうかはともかく、なにをすればいいかだけは聞かせてください」
「連邦捜査局の権限で、オークションの当日にある口座を凍結してほしいのよ。わたしの調べでは、海賊航路は世界各国の銀行にいくつもの匿名の口座を分散して保有していて、プログラムが自動で預入・分別・統合の古典的なプロセスを実行するアーキテクチャよ。まだ仮説の段階だけど、もし正しければ、わたしが指定する口座にオークション当日二億ポンドもの大金が振り込まれるはずなの。そしたらお金をぜんぶ引き落として、ふたりでどこか遠い外国にでも高跳びしましょう。お金は一億ずつ山分け。どう?」
その金額を聞いて、ミアの心臓がどくんと脈打った。
(一億ポンド……あたしが一生働いても、きっとそんな大金……昇進なんて目じゃない。お金さえあればいくらでも……)
ミアは目をぐるぐるまわしていた。
ヴェリティはさらに押した。
「いい? こういうのは『早い者勝ち』なのよ。わたしたちだけじゃないかもしれない。やるならぐずぐずせず、徹底的に。やらないならやらないでもいいけど、中途半端だけはだめなのよ」
ミアの頭はぐわんぐわんしている。
しかしすぐに彼女は冷静になり、彼女はたとえ報酬の話を除いたとしても、それは聞く価値のある話だと考えた。
(あたしはお金なんていらない。でもあえて断る必要もない。当局にも捜査上必要な過程だったと言い訳できるし……それに、場合によっては……ううん)
それでも考えれば考えるほど頭に過ること。一億ポンドあったらなにができるか。一生遊んで暮らしたり、好きなものを買って、自由に生きられるかもしれない。
ミアは目をつむって頭を振り、疑念を振り払った。
(ミア、誘惑に負けちゃだめ。ここは気を強く保つところよ。これは海賊航路に迫る重要なことだし、それに、うまくすればシルバー・バレットを捕まえるきっかけにもなるかもしれない。だから誘いに乗ったふりをするだけ。そう、これは『ふり』だから……)
ミアは気を落ち着かせて深呼吸し、答えた。
「わかりました……やりましょう。成功報酬の一億ポンド、約束ですよ」