さて、話は戻り、夏。日中の太陽光は日増しに強くなり、ミアは汗で化粧が落ちないかとか髪がべたつかないかが気になって、しきりに肌や髪に触れてながら通勤していた。

 午前中、アメリカ合衆国バージニア州の連邦捜査局本部で、ミア・ウェストンは不穏なうわさを聞いた。

「ラスベガスの秋のオークションに、あのチェン・スーシューが現れるらしい」

「世界でも五指に入る大富豪じゃない」

「それよりも彼女の出自から、ラスベガス・フォールターム・オークションが資金洗浄に利用されないかということで、長官が対策本部の組織を検討しているそうですよ」

 ミアの同期とふたりの先輩がそう話していたので、彼女も興味本位で聞いてみた。

「チェン・スーシューというかたが現れると、なにか悪いことでもあるんですか?」

 ミアの先輩の男性は答えた。

「いや、これは単なるうわさに過ぎないんだがね。もともとあの手のオークションが犯罪組織の資金源になっているという疑いはあったわけだ。支払方法が多様化して、捜査局も資金の移動経路が見えなくなっている。一昨年に青天井な競売が認められたこともあり、ぴりぴりしてるんだ」

「でも、証拠もないのに……」

「ええ。ただこれもまたうわさに過ぎないことだけど、海賊航路というものがあってね」

「海賊航路って、なんですか?」

 先輩のふたりは目を見合わせた。

「言っていいものかどうか」

「あたしも知りたいです」

 ミアの同期も知らなかったようでたずね、先輩の女性がばつが悪そうに答えた。

「局内では常識なんだけどね、一年目はみんなそういう反応をするの。海賊航路っていうのはね、世界各国の犯罪組織の資金の移動経路になっているという仮説上のルート。海を渡って世界中に張り巡らされているように見えるから、そう呼ばれてるのよ。もちろん、そんなものがあるとはかぎらない。でもそういうものがあるとしなければ、たしかに計算があわないの。世界中の貨幣の総量が、こう、魔の三角海域に吸い込まれたみたいに急にすっと減ってしまう場所がある。そしてその消えたお金がどこへ行ったのかは、だれにもわからないの」


 ミアにとって、シルバー・バレットの捜査と海賊航路の話題を耳にした時期が重なったのは偶然に思えた。ふたつの話題で関連するものはラスベガスで開催される秋の競売しかなく、大きなイベントではありがちなことなので、ことさらにそれらを関連づけて考えることはなかった。

 あくまでミアの関心はシルバー・バレットの捜査、および彼女自身のキャリアにあり、オークションまで二ヶ月も切ってしまったことで焦燥感が生まれ、証拠を挙げるため一心不乱に活動していた。

 ミアが捜査を始めて意外だったことは、ヴェリティ・バレーの人となりというものだ。ミアがふたたび連絡をとろうとすると、ヴェリティは場所をサンディエゴのラホヤビーチと指定した。

 そしてミアが飛行機で発ってサンディエゴで一泊し、翌朝の午前一〇時、待ち合わせの場所に向かうと、ヴェリティは水着にパーカー、そしてサーフィンボードを片手に待っていて、まるでデート気分で緊張感がなく、ミアは気が抜けてしまった。

「確認しますが、今日はクイーン・オブ・ダイアモンド奪取に関する計画を検討するために集まったのですよね」

「そうだったかしら」

 ヴェリティはとぼけた答えをした。

「それよりウェストン捜査官、せっかくビーチにきたっていうのにそんなお堅い格好だとかえって怪しまれるわよ」

「へ?」

 ミアは私服だし自然体でいたつもりだったが、言われてみるとけっこうがっつりメイクをしてきてしまったなどあり、砂浜を歩くならもっとラフで薄い服装のほうが自然だったかもしれないと感じた。

「このあたりはちょっと値が張るけど、まずは水着でも買いましょう。それに日焼け止めも塗らないとお肌によくないわ」

「ちょ、ちょ」

 ミアは言われるがままに街を歩き……つまり、水着にパーカーのヴェリティの隣で……いろいろなお店をまわって試着を繰り返し、ああでもないこうでもないとしているうちにあっという間に二時間ほど経過してしまった。

 ビーチの近くだから水着で歩き回っているひともそう少なくないとは言え、ふたりきりで、平日に、女同士で水着を選んではしゃぎまわっているという状況に、ミアは周囲の目が気になって仕方なかった。

 ショッピングというのはなんだかんだで頭も使うし歩きまわって体力もいり、炎天下で二時間もいろいろなお店を転々としていればおなかも空く。

 ミアのおなかが鳴ったことで、ヴェリティは腕時計を見ていった。

「そろそろお昼にしましょうか」

 結局、ふたりは水着姿のままビーチの近くで食事をすることになった。

 ラホヤビーチ周辺のレストランは総合的に物価が高く、ミアは地元なら九ドルくらいのカロリーのパスタに二七ドルも払う羽目になった。彼女は学生時代からどちらかというとおしゃれさよりも栄養失調にならず、それでいてできるだけ安く、かつ友人や男性に軽く見られないような食事を選ぶ傾向があった。

 パスタが運ばれてくるのを待つあいだ、ミアはヴェリティに軽蔑の眼差しを向けた。

「行き当たりばったりですね」

「そうかしら。でもよかったじゃない。これって経費で落ちるんでしょ?」

 ミアはつんと答えた。

「まあ、申請すれば……」

「今日買ったものはお近づきのしるしと思って受け取って」

「残念ですけど捜査中に得たものは局の持ち物になりますから提出しなければなりませんし、公務で市民と必要以上に私的なやりとりはできないんです」

「へえ、つまり、その水着はこう、証拠物件として鑑識され、ゆくゆくは検事や判事に」

「そういう言葉での嫌がらせ行為はやめてください」

「あら! そうね。ごめんなさい」

 それから食事が運ばれてきて、ヴェリティは髪をかいてもちあげ、フォークでパスタを食べ始めた。

 ミアは髪が長いと食事中邪魔だし、夏は暑いし、それに単純にかわいいとも思っていたのでショートヘアにしていた。ヴェリティの髪は思ったよりけっこう長く、とくにサイドは鎖骨にも届くほどで、またバックも、結っているだけで降ろせばかなりのボリュームがあるように、ミアには思えた。


 食事のあとで、ふたりはラホヤの入江で遊んでいた。

 ヴェリティはサーフィンが好きなようで、彼女がそこそこうまく波に乗っているところを見てミアは惚れ惚れとしてしまった。

(かっこいいな)

 ミアはあまりそういったアウトドアな趣味や特技がなかったのもあるが、それ以上に、こんなふうに大きなことを目前にしてなお遊ぶことのできる精神的余裕のある彼女の度胸というか胆力というかが、素直にすごいと思ったのだ。

 またヴェリティは適当なコインを使った手品を披露した。

「両手は空。ここにハーフ・ダラー硬貨があります。種も仕掛けもありません」

 ヴェリティは両手を開いて見せて一枚の銀のコイン以外になにか小道具を使っていないことを強調し、ミアそれをまじまじと確認した。

「これを左手でとる。すると……」

 ヴェリティが左手を開くと、コインはあっという間に消えてしまっていた。

「すごい。どうやったの!?

「ふふ。コツがあるのよ」

 彼女は右手のひらを開いて見せる。器用に手のひらでコインをはさんでいた。

 ミアはがっかりした。

「なあんだ、消したわけじゃなくて、左手でとったように見せただけなんだ」

「ええ。見せ方の問題だけど、それが奥深いところでもあるのよ。てっきり左手でとったように見えたでしょ?」

 ミアはうなずいた。

「フレンチドロップっていうの。やってみるとわかるけど、けっこう難しいのよ。すごく自然に手を動かさないと簡単にわかっちゃう。こういうのはどうかしら」

 ヴェリティはハーフ・ダラーを持った右手で財布から銅のペニーを一枚とり、そのまま右手のひらを開いて見せた。

「今度はペニーとハーフ・ダラーを一枚ずつ。左手にはなにもありません」

 彼女は左手をひらひらさせて見せた。

 ミアはわくわくして見ている。

「で、ペニーを左手に載せる」

 ヴェリティは右手を自然に動かしペニーを左手のひらに投げ、両手をぎゅっと握った。

「開くと……」

 彼女は岩盤に手のひらをつけ、両手をゆっくりと後ろにひきつつもちあげた。

 そこには二枚の銅のペニーが置かれていた。

「うそっ!」

 ミアがヴェリティの両手に視線を移すと、彼女は両手をくるくるさせてなにもないことアピールする。

「見せて!」

 ミアが彼女の両手を入念に調べても、文字通り種も仕掛けもなかった。皮膚を手術して袋をつくるとか、そういったこともしていないように見えた。

「ハーフ・ダラーはどこに行っちゃったの?」

「ペニーに変わっちゃったのよ」

「そんなわけないでしょ。この一瞬で」

「ふふ」

 ヴェリティはいじわるそうに笑い、パーカーのポケットからハーフ・ダラーをとり指先でくるくるいじって見せた。

 ハーフ・ダラーを隠すところまではなんとなくわかったが、ミアにはペニーがいきなり増えた理由がわからなかった。

 ミアは悔しそうに求めた。

「種明かしして」

 ヴェリティは三枚のコインを手のひらに載せた。一枚のペニーをハーフ・ダラーのしたに潜りこませて。

 ハーフ・ダラーのほうがペニーよりも大きい。ペニーはハーフ・ダラーにすっと隠れてしまった。

「最初から三枚あったのよ。財布からコインをとりだしたとき、二枚しかないって思ったでしょ? 前提がまちがっていると、人間っておもしろいほど罠にはまる。最初に観客の頭のなかに『二枚しかない』という前提をつくりあげないと、そもそも演技が成立しないのよ。そこですでに勝負は始まってたってこと。それから左手にペニーを投げるときに、うまくハーフ・ダラーを手のひらではさむ。これはフレンチドロップも使ったクラシックパームってテクニック。それからあなたの視線を岩盤に集中させて、手をひくときコインをポケットに落としたの」

 ミアは理屈で考えるとたしかにと思ったし、子どものころから見てきた手品というものの理解の浅さに恥ずかしくもなりつつ新しいことを知るのがおもしろくもあった。彼女は正直、これまで手品なんて小道具さえあればだれでもできるような滑稽な娯楽だと思っていたが、人間の認知を徹底的に研究して欺く技術なのだ。

 そしてただ理屈で言うだけでなく、実際こうも器用にそれをやるヴェリティに、ミアは並々ならぬものを感じた。

 なにより特別な道具や手術といったものもなく、たった三枚のコインでここまでできるということは、それ以外のものでもできるかもしれないということだ。その応用力の高さはミアにも容易に想像でき、もし余興ではなく現実でそういった手品を仕掛けられたら、と、彼女はちょっとした恐怖を覚えるほどだった。

「おもしろいでしょ。ちょっとした手の動きだけで人間の認知に働きかけて、相手を騙すことってできるの。たかが手品されど手品。こういう技術を覚えておくと、意外なところで役に立つのよ……意外な、それでいて大事な局面でね」


 ミアが薄々ヴェリティという人物に感じていたのは所作のひとつひとつに現れる、妙な子どもっぽさだった。

 食事の仕方ひとつとっても食べることに夢中で他者のことを気にしていない。作法には則っているし見ていて不快になるようなタイプではないのだが、ひとたび食事を始めると無言になってしまい、目のまえに一緒に食事している相手がいるということを、気にしていないようだった。

 いろいろな趣味を披露してくれたときもそうだ。彼女はどうにも基本的に、好きなことを好きなときにやっているだけだとミアは感じた。相手を楽しませてあげたいとか、一緒にいて楽しいきもちになってほしいなんてかけらも思っていない。結果的にミアは楽しむことができたが、ヴェリティがそうしようと思ったわけではないのだ。

(……純粋なんだな)

 ミアはそう感じ、なんだか母性をくすぐられてしまったような気がした。

(このひとは孤独なんだ。どこにいても。目のまえにあたしがいても、きっとそれは地球の裏側に見ず知らずのひとがいるのと大した違いがないんだと思う。こんなに近くにいるのに『心の距離』というべきものは、ずっと遠くにある……このひとにはそういう、ひとを寄せつけなさというか自己中心的さというか、自分さえよければそれでいい、そういう潔さがある。まだ他人との関りを知らず、まだ自分の『心の世界』に他者がおらず、孤独の意味さえ知らない純粋無垢な生まれたての子どものように……そしてその子どもっぽさをそのままに、知性と美貌だけをひたすらに磨きあげたような、そういう強さが彼女にはある)