さてここで話はミアがヴェリティのもとをたずねるおよそ半年前、一二月上旬に遡る。当時二六歳だったヴェリティは、シベリアのあるダイヤモンド鉱山で発見されたばかりのクイーン・オブ・ダイアモンドを、ひと目見ようとロシア連邦をおとずれていた。
ヴェリティは宝石そのものも好きだが、より好きなことはそれを利用していかに儲けるかということだった。
このあたり一帯の採掘権はスヴェトラーノフ科学アカデミーの子会社の鉱業会社が独占していたため、クイーン・オブ・ダイアモンドは科学アカデミーの所有物となった。
スヴェトラーノフ科学アカデミーはもともと宇宙探査機の開発や太陽系惑星の鉱物資源の採掘を行う企業だったが近年は裾野を広げ、地球の鉱床を開発するのみならず私設軍隊も所有する、場合によっては独立国家とみなされうるほどの存在だった。
スヴェトラーノフは三〇年ほどまえに殉職したとされる宇宙飛行士のスヴェトラーナに因んだ命名で、その代表はその本名がなんであれ、男性ならスヴェトラーノフ、女性ならスヴェトラーノヴァと愛称で呼ぶことが通例だった。
ヴェリティはスヴェトラーノフ代表と懇意だったこともあり、シベリアの支社の暖かいオフィスで、ふたりきりになってクイーン・オブ・ダイアモンドについて質問した。
「きっと、オークションにかけたら一〇〇〇万ポンドはくだらないでしょうね。売る気はあるんでしょうか?」
スヴェトラーノフは答えた。
「鉱業会社は採掘した鉱物を社会に役立てることが仕事です。そのためにはまず役立てる能力のあるものに売却しなければなりません」
「ふふ。そうでしょうね」
ヴェリティは思うところがあり、提案した。
「ねえスヴェトラーノフさん、このダイヤの競売を、わたしに任せてくださらない?」
ヴェリティはもともと界隈では有名な投資家で、こと金融に関しては信頼されていた。
「きれいな宝石というものはいつの時代でも魅惑的なものではあるけれど、技術の向上に応じて産出量が増加するに連れて、その値打ちが相対的にとはいえ降下傾向にあることは否定しようのない事実だわ。それに『宝』とはいえども結局はただの『石』。それに大枚をはたくというのは、言ってみれば究極の娯楽。いま世界は恐慌とも言える経済情勢で、みんな娯楽に使うお金も惜しいほど疲れてる。この大きさのダイヤなら、きっと二五〇〇万ポンドがいいとこ。でもわたしならこれを五〇〇〇万、一億だって売ってみせるわ」
スヴェトラーノフはすくなくとも彼女がだした数字のうち、二五〇〇万ポンド、という点に関しては鋭い洞察力があると感じた。
「たしかに一〇〇〇カラットのダイヤなんて、きょうび珍しくもない。過去には五〇〇〇万ポンドという値がついたこともありますが、それだって先行者利益というもので、後発で同じ値がつくというのも無理筋というものでしょう。また世界情勢など複雑に絡みあう要素を検討して、二五〇〇万ポンドが上限であろうというのは納得のいく試算です。その一方で五〇〇〇万、一億という数字はわからない。バレーさんが言うのであれば、きっと少なからず根拠があるのだろうとは思います。それはいったいどのようなものでしょう」
「あてがあるのよ。でも軽々しくは言えない。最低でも五〇〇〇万で売るわ。もしもそれ以上の価格で売れた場合、その差額を成功報酬として支払っていただきたいの。六〇〇〇万で売れたら一〇〇〇万、七〇〇〇万なら二〇〇〇万、もし一億だったら五〇〇〇万よ。それ以下だったら前金を返すし報酬もいらないけれど、代わりに万が一損益が発生してもわたしに賠償責任はないことにしてほしい。もちろんぜったい成功させるつもりだけど、勝算があることこそ〝石橋を叩いて渡る〟のがわたしの性分なの。最悪の場合は常に想定しておきたいのよ。悪くない取引だと思うわ。わたしを信じて委託してくださらない?」
スヴェトラーノフはなにか裏を感じたが、大きなお金が動くときには大なり小なりあるものだ。
「ここですぐに決定とはいきませんが、検討してみましょう」
一二月中旬、ヴェリティは香港をおとずれ、仙丹製薬の筆頭株主のチェン・スーシューをたずねていた。
チェンは仙丹製薬の創業時から株式の過半数を所有しているため、同社の成長とともに世界でも有数の資産家となった人物で、その資金力と計画性から当局も手も甘し、ついに当局に手を貸すという名目で『公認』のマフィアにのぼりつめた組織のボスでもある。
彼女は私生活では深い朱色の絹の布地に金箔がちりばめられた豪勢な着物で、両の袖は地面につくほど長く、裾は優雅なお引きずりだった。そんなチェンの私室はビルの八八階をまるまるワンフロア占有する広さで、毎晩香港の百万ドルの夜景を見渡せた。
ある晩チェンがいつものようにワインを開けて晩酌をしているとき、ヴェリティが現れ両手をあわせて大きく腰を折り、お辞儀をした。
「お久しぶりです、チェンさん」
チェンは血のように赤いワインを片手に、物珍しいものを見るように答えた。
「えらく腰が低いじゃないか。なにか頼み事かね」
「はい。投資のお願いにと参りました」
「金額を言いたまえ」
「三億ポンド」
チェンは笑いを堪えられなかった。
「たしかにうちにとってははした金ではあるがね、きみのような若造に、そうやすやすと投げられる金額ではないね」
「計画があります」
「かいつまんで言いたまえ」
「今冬にシベリアで、クイーン・オブ・ダイアモンドという一〇〇〇カラット超のダイヤの原石が採掘されたことはご存じですか?」
「まだ一般には報道されてはいないようだが、身内から話は聞いている」
「来年のホリデーシーズンに、スヴェトラーノフ科学アカデミーはそれをアメリカで競売にかける予定です。これはどうでしょう?」
チェンは片耳をぴくりと動かした。
「初耳だ。値動きがありそうだね」
チェンは小切手に金額を書き、ぴんと弾いてヴェリティに渡した。
「情報の代金だ。ほんのきもちと思って受け取りたまえ」
「どうも」
金額は渋いものだったが、ヴェリティは形式的に受け取った。些細なことで起こりがちな問題を事前に避けるための暗黙の了解だ。どんな小さなことでも貸し借りをつくらないというのは、あとあとの厄介を避けるためこの世界では常識なのだ。
「しかし、三億もの金が必要になることにはいまいち繋がらないね」
「ええ、そうでしょう。チェンさんにお願いしたいことは、まさにそのダイヤモンドを、一億ポンドで落札していただきたいのです」
チェンはけたけた笑った。
「宝石ってのは、たしかに美しい。だが聞くかぎり、クイーン・オブ・ダイアモンドってのは一億の値をつけるほどのものじゃない。せいぜい一〇〇〇万! それに三億って数字とはだいぶ飛躍があるね。なにを考えてる?」
ヴェリティはすこしにやりとしてしまった。
「ふふ。チェンさんともあろうおかたならすぐに気づかれると思ったのに、意外でした。ここで大事なのは競売の送金方法ですよ。去年からのことですが、競売での支払いで暗号通貨を使用する場合の上限を、出品者が指定できるようになった。文字通り『青天井』になったんです」
チェンはそれでヴェリティの言わんとすることを察し、冷たい表情になった。
「資金洗浄をやろうって言うんだね」
「はい。チェンさん、長年の活動で集めた汚れたお金が、泣く泣くお蔵入りしていることは知っています。宝の持ち腐れです。このまま泣き寝入りしたくはないでしょう?」
「無理だ。資金の移動経路は当局が常に嗅ぎまわっている。あっという間に足がつく」
「それがルートがあるんです。利子は高くつきますが……」
チェンは青くなった。知識としては知っているが、それは彼女でさえ手に負えないほど危険なものだ。組織が大きくなればなるほど、そういった危険は冒せなくなる。
「いわゆる海賊航路のことを言っているなら、それこそうちには無理だ。取引手数料は二〇パーセントの暴利。いれてだすだけで四割近くもってかれる魔境。三億いれてだせば一億九二〇〇万。さらにここから諸々が引かれる。すべての経路での手数料を勘案すると、三億のうち二億、実に六六パーセントもの金が吸われることになるだろう」
「ええ。それだけあれば、手数料も込々でクイーン・オブ・ダイアモンドを落札できる。そのお金はスヴェトラーノフ科学アカデミーに『きれいな』状態で振り込まれます。このとき三億のうち二億は経路上で霧散しますが虚空に消えるわけではありません。海賊航路を牛耳る何者かの手元に集まるのです。チェンさんも聞いたことがあるでしょう? もしその何者かの正体に迫り、海の藻屑となった二億を回収できたとすれば、どうでしょう」
チェンはそれを聞いて、すくなくとも話を聞いてみる価値はあると考えた。悪くしても海賊航路の謎に迫れる可能性があるからだ。もしそれを知ることができたならば、それはたった三億を仮にどぶに捨てる結果に終わったとしても、釣り合わないほどの価値があると言えた。