一九一二年(明治四五年)、日本、東京府。

 深夜零時。

 明治時代のふるびた家の台所は暗く、流し台からぽた、ぽたと、水滴の音が規則正しく聞こえてくる。

 仕事で忙しい両親は、今夜も帰ってきてはいない。

 水無川(みながわ)優理(ゆうり)、一六歳。一八九六年(明治二九年)二月二九日、ロンドンの生まれ。四歳のときには日本に戻り、イギリスでの生活はほとんど覚えていない。黒地のセーラー服は体操用に学校で指定されたもので、動きやすいから家でもたまに着て過ごしている。

 そんな彼女はいま、瀬戸際だった。

(人間のいのちなんて、数センチのやいばで簡単に……)

 震える手で包丁を握り、台所で小さく丸まるように座って柔らかい首の皮膚にあてる。

 食器、工具。

 一六歳の少女が入手できるようなものでも、その気になれば大切な血管を傷つけることはできる。

 壊すことは一瞬で、なおすことは二度とできない。

 ひょっとしたらあるかもしれない、すべての可能性を閉ざしてしまう。

 たとえそれが『ありもしない未来』、『ありもしない可能性』だとしても、じっと耐え忍べば、ひょっとしたらよいことが起こるかもしれない。

 それを閉ざすことが、最良の選択なのかがわからない。

 躊躇する理由はそれだけだ。

 優理は肩を抱えてうずくまった。

 骨格に筋肉がこびりつき、皮膚がぐちゃぐちゃの内臓を包んでいる。目に見えないほど小さな細胞が身体中を這いまわって、かろうじて生きながらえている。

 いつもぞわぞわ穢らわしい感じがして、毎日お風呂に入ってごしごし洗っている。

 精神的にどん底で、彼女自身の存在さえ消し去ってしまいたい衝動に苛まれている。

 彼女がなまじ勉強家で、人体の構造に詳しいこともその思考傾向を助長していた。

 ぱりん。

 お皿が割れる音がした。優理は飛び跳ねて立ちあがり、包丁を背に隠す。

 洗って乾かしていたお皿の破片が床に散乱している。

 激しい動悸と荒れる呼吸。

 なにかの拍子の偶然かもしれない。そんな期待はすぐに裏切られた。

 今度は食器棚ががたがたと揺れ、お皿が一斉にあふれる。ひどい音響とともに机と床に陶器が砕け散る。

(地震!? ひ、ちがう)

 まるでかまいたちだ。風が吹き荒れるように移動している。食器棚の揺れがおさまったかと思えば、今度は蛇口から水が勝手に流れだす。

 そしてそれは優理のほうに向かい……。

(――ひ――)

 ひんやりとしていて、かつずんぐりと重みのある、空気。

 明らかにほかとは温度と密度の異なる空気の『かたまり』。

 それは彼女の首元を締めつけ、這いあがり、頬を撫で唇をこじ開けようとする。

 目には見えない。しかし確実になにかが『いる』。

 それで危機感を感じた彼女は、歯をぐっと食いしばって包丁をぶんぶん振りまわす。

 ひゅう、と風の音がして『それ』はどこかへ消えてしまった。

 彼女はばくばく鳴っている左胸を両手でぎゅうっと押さえた。

(な、なんだったの……?)

 そのときひゅう、ひゅうとすきま風のような音が強く鳴ったかと思うと、床に散乱したお皿の破片が風に乗ってきらきらと舞いあがる。そしてそれは天の川みたいに渦をなし、やがて机のうえに集まってゆく。

 陶器の破片が、まるで銀河系のようにある場所を中心にゆっくりとまわっている。最初は無秩序だったそれは、優理にはわからないが、なんらかの法則に従って協調して動き、整い、ひとつの安定した状態を目指している。

 まさしく星空を見るようなきもちで、優理はいまや恐怖よりも、この神秘的ななにかの深遠な魅力に、驚きおののくように惹きつけられていた。

 それは多くの自然がそうであるように、科学者を惹きつける強烈な魅惑を放っている。優理にとってこのふしぎな存在はいま、世界に組み込まれた基本的な法則を目の当たりにしたその瞬間の、理解しがたいものに対する驚嘆と畏怖、そして理解したいという知的な好奇心と冒険心を刺激される対象だったのだ。

 それはとても現実のなにかになぞらえて、やすやすと表現できるようなものではない。見るひとによってどうとでも表現できる。しかし、だからこそどうにか表現し、だれかにそのありようを伝えたいと優理に思わせる、あらがいがたい魅力に満ちている。たとえば月の表面をうさぎになぞらえ表現するように、あるいは星座を幻獣や神々の名で呼ぶように。優理はどうにかそれを彼女なりに説明し、理解しようと試みずにはいられなかった。

(蝶の星座だ……)

 優理は思った。

 星々は八の字を描くように、楕円軌道を周回している。いちどそう思うと何度まぶたをぱちくりして見直してもそうとしか見えなくなる。それがいったいなんであれ、優理にはそれがまるで蝶のように舞う、どこか素敵な存在に思えてならなかった。

 彼女はうっとりと見とれ、包丁を床に落とし、ゆっくりとそれに手を伸ばした。

 じわり、と指先の皮膚を焼き焦がすようなにぶい痛み。

 その蝶の界面には電気か磁気か電磁気か、それがなんだか優理にはわからなかったが、とにかく、外部と内部を隔てるような力が働いていた。

 その指からまるで波が水面を伝わるように、彼女の身体を媒体として〝言葉〟のようなものが彼女の頭蓋の、ちょうど内耳神経のあたりを震わせた。

⦅――ね――ず、さ――い――⦆

 その感覚は悪いものではなかった。こわくもなかった。優理はきっとこの蝶が、なにかを必死に伝えようとしているのだと感じた。

「ね、ず、さ、い……?」

⦅――ねむ――けず、さめ――ない――⦆

「ねむ、けず、さめ、ない……」

⦅――眠らぬかぎり夜は明けず、覚めぬかぎり朝はおとずれない――⦆

「ねむ、らぬかぎり、よはあ、けず……眠らぬかぎり夜は明けず、覚めぬかぎり、朝は、おとずれない……?」

 謎めいた言葉だった。優理にはその言葉の意味がよくわからなかった。

⦅――眠らぬかぎり――⦆

「なに言ってるの……?」

⦅――眠らぬかぎり――あなたは縛られ続ける、魂の牢獄に――永遠に――目を覚まして――幽理(ゆうり)――⦆