神田川のほとりで、マグダレーネはお茶の水橋から川に落ち、溺れて意識不明になった優理をどうにかひきあげ、心肺蘇生を試みていた。

「起きて、起きて……目を覚まして、ユーリ」

 たかが数分、されど数分。

 水中での数分は、ときには生死を分ける一大事となる。

 マグダレーネは涙をこぼし、手は休めず片方の手首でぬぐった。

「これじゃあ、あたし、レンリに顔向けできない……」

 マグダレーネにとって優理を放っておけないこと。それは彼女自身のため。

 彼女もまた『心の決着』がつけられずにいる。

 もちろんこういった状況でひとを助けるのは、当然のことかもしれない。

 彼女が医師でなくとも溺れている友人を見て見ぬふりをすることはしなかっただろう。

 ただ彼女にとっては『ひととして当然のこと』以上に、どうしても優理を助けなければきもちの整理がつかない事情がある。かつて彼女を救ってくれた友人の、直接の子どもでないとしてもゆかりの人間が苦しんでいるのを見てなにもできなかったとすれば……彼女自身が納得できないだろう。

「ユーリ、ユーリ……お願い……目を覚まして」

 水があふれる。

 マグダレーネの尽力あって優理は肺のなかの水を一気にはきだす。呼吸が戻ったのだ。

 一気に早くなる鼓動。

 脈が戻って血流に酸素が乗り、ぐわんぐわんと揺れる視界。

 明瞭になる意識。

 優理は濡れて、水を吸い重くなった着物をはだけさせ空をみあげていた。

「……マグダレーネ……さん……?」

 記憶がある。

 彼女の声を聴き、マグダレーネは安堵しどっと疲れ彼女の胸にとびかかってしまった。

「う、げ」

 まだ意識が戻ったばかり。その衝撃だけでも優理にはすこし苦しかった。

 マグダレーネは目を赤く腫らして彼女の胸をたたく。

「ばか! 心配させないで。ばか……」

 優理はそれにしてもとても目覚めがよく、深い眠りをとっていた感じがした。

 夢のなかのことをすっかり忘れてしまっていた。ただとてもいい夢だった感じがする。

 優理はたずねた。

「わたし、どれくらい眠っていました?」

 マグダレーネは彼女の胸から顔を離し、めじりをこすりながら答えた。

「眠っていたなんてものじゃない。心肺停止、意識不明だったよ」

 優理はなにがあったのかほとんど覚えていない。それでもマグダレーネが大袈裟な表現をしているのではないことはわかった。

 川。

 ふと一瞥する。

 状況理解。

 そのあいだになにがあったのか、優理にはわからない。それでもマグダレーネに大きく助けられたのだとはわかった。

「……ありがとうございます……」

「いいのよ。医師にとって……いえ、友人としても……最高のお礼は健康に生きてくれること。お大事に。それより時間は大丈夫なの? 遅刻しない?」

 優理は我に返り、起きあがって正座し懐中時計を見る。

 講演の時間までもうほとんどない。

 手鏡。

 着物はびしょびしょ。髪はぼさぼさ。お化粧は台無し。飾りは流されなくなっている。

 お化粧なおしをしている時間は、もうない。

 優理は力が抜け、足を崩して女性座りになり、ため息をついた。

「これじゃあ講演には出席できません。こんなはしたない格好は見せられません。みんなに『失礼』になりますから」

 マグダレーネはきょとんとした。

「失礼? どうして?」

「せっかくのご講演に出席させていただくのに、このていたらく。失礼です。今日はもう諦めます。このままうちに帰って……」

「……失礼って思うのは『きみ』? それとも『みんな』?」

 優理はどきりとした。

 相手の考えを、決めつけてはいないだろうか。

 マグダレーネは続けた。

「失礼に思われる、と思うほうがよっぽど失礼なこともある。『失礼に思われる、と思うから行かない』? そんな理由で約束をすっぽかすほうがよっぽど『失礼』だよ。見て」

 彼女は旅行かばんを開き洋服をとって見せた。マグダレーネの着替えにしては大きく、サイズがあわない。優理ならちょうどいいくらいの大きさだった。

「これ、せっかくなので贈り物と思って持ってきたの。フランスのココ・シャネルというデザイナーさんのお洋服。時間ないし仕方ない。これ、着てみない?」

「い、いえいえだめです、できませんよ」

 優理にしてみれば彼女は今日逢ったばかりの女の子。その彼女の贈り物というのはその本来の贈り相手がだれであれ、そういう状況だから『せっかくなので』と言い訳してそうやすやすと横取りできるものではない。

「……講演は今日だけではありません。今日は諦め帰って予習し、明日から……」

「だめだよ」

 マグダレーネは座っている彼女に顔をずいと近づけて言った。

「そんなこと言ってたら一生なにもできない。『今日』行きましょう。なにがなんでも」

 優理は彼女の並々ならぬ気迫に押されつつも。

「でも、そのお洋服……見るからに高級そうですし」

 シャネルの白いブラウスと赤いスカート。全体として余計な装飾は少なめの、シンプルで動きやすそうな洋服。それでも袖や裾、襟元によく目を配れば驚くほど繊細なレースの刺繍が入っているし、生地も丈夫かつ暖かそうで、しかも着替えやすそうな、優理の好みのデザイン。

 それにフランスの洋服なんてなかなか入手できるものじゃない。だから欲しくない、と言えばうそになる。

 それでも。

「……だれかに、さしあげるものだったんでしょう? 悪いですよ」

 するとマグダレーネはしゅんと、寂しそうに顔を伏せた。

「この際だから言うけど、彼女、きっともう亡くなっているのよ」

 優理は言葉に詰まる。

 悪いことを言ってわせてしまったのかもしれない。

「だから、というわけじゃないけど……お墓に添えるのも、もちろん大事なことだと思う……でもね、それでそのひとが喜ぶとも思わないの。亡くなったひとのことでずっと思い悩むくらいなら、いまを生きているひとのためになることをしなさい、って。彼女なら、きっとそう言うと思うから」

 優理はここまで言わせてしまって断るのも、それはそれで失礼だと感じた。

 それにこんなことで講演に行かないことも。

 だから答えた。

「わかりました。ありがたく受けとります」


 帝國大學での講演にマグダレーネも一緒に出席した。もともと彼女も興味があり、それがこの日を選んだ理由のひとつでもあったのだ。

 講演が終わってから、ふたりは帰りの電車を待っていた。

 ぽつり、と優理は告白した。

「わたし、感謝してるんです。マグダレーネさんに……」

 マグダレーネはいきなりそう言われて驚いた。彼女がこんなに簡単に感謝を述べることのできるひとだとは、あまり思っていなかったのだ。

 それは悪い意味ではない。感謝を正直に述べるというのは、想像よりもずっと難しい。それがよいことだとしても。要するにマグダレーネにとって連理のほうが特殊で、彼女のほうが『一般的な現代人』という印象だったのだ。

「どうしたの、急に」

 マグダレーネはどぎまぎし、優理も赤くなる。

 感謝を述べたり謝罪をするというのは、親密な仲でさえ難しい。

 だから優理は恥ずかしかった。それが恥じることでないとしても、『ふつうじゃない』ことをするのは恥ずかしい。

 それでも口にできたのはいろいろな経験を積んで彼女の心になにか変化があったのか、はたまた単に睡眠不足による眠気のせいで、口が軽くなっていたのか。

 いずれにしても、彼女はこの勢いなら……今日しか彼女に言える機会がないと思うからこそ、言えるものというものがあった。

「ずっと『しない理由』を探していました。今日も、ほんとは講演に行きたくなかった。行けば『無知な自分』と、どうしたって向きあわないといけないから……『わからないとわかってしまう』のが、たまらなくおそろしいんです」

 マグダレーネはそれを聞いて思うことがあった。

 それでもへたなことは言いたくない。だから軽く相槌を打ち、彼女の言葉の続きを静かに待った。

 優理は彼女が耳を傾けてくれていることを感じ、続けた。

「独語を学んでも、ずっと……話せるか聞き取れるか……通じるか、不安でした。あなたと話した経験は、あなたにとっては大したことじゃないとしても、わたしにとっては……ほんとうに大事なことでした。『いざ講演に行っても内容以前に言葉を聞き取ることさえできないかもしれない』……行けば否が応でも現実を突きつけられます。行かなければ、目を背けることができる。『もし行っていたらできたかもしれない』……そういう『ありもしない可能性』にすがりつくことも、できると思うんです」

 マグダレーネは静かに聞いていた。

 どう答えたものかもわからない。

 だから相槌を打つように言った。

「そうだね。わかるよ」

 優理は静かに、すこしのあいだ黙していた。

 マグダレーネはたずねた。

「結果はどうだった?」

 優理はうつむいた。

「いえ……」

「わからなかった?」

「……帰ったら、復習するつもりです」

 マグダレーネはくすりとした。

「わからなかったんだ」

「言っていることはわかりました」

「じゃあどうして復習するの?」

「……わかったという、自信がないから……」

「それは大事な感覚だと思うよ。ほんとはわからないのに自信があるより、よほどいい」

 それは優理を暗いきもちにさせる原因のひとつでもあった。

 常に自信が持てない。なにを知っても、いつも乾いた感じがぬぐえない。

 マグダレーネは続けた。

「たった一日で理解するほうが無理なんだよ。一歩一歩、すこしずつ先に進むしかない。なにごともね。今日行かなかったら、きっと帰っても復習しなかった。その〝きっかけ〟がなければ始まらなかったこともある。それに小さな『選択』の積み重ねの先にしか、『未来』はないんだからね」

 優理はそういう言葉をかけてもらえてうれしいきもちと、これからもずっと続く勉強の日々、そしてそのたびに新しい『世界』を知り、彼女の『世界』が広がって大きくなるに連れて相対的にどんどん彼女自身が『小さな存在』に思えていくだろうということを想像し、暗いものも感じる複雑なきもちになった。

 それでもそれは正しいと思ったので、優理は答えた。

「そうですね、そう思います。そして、だから……」

 優理はすこし間を置き、決心して告白した。

「だから、ほんとに……『もし今日マグダレーネさんに出逢わなかったら』……わたし、またいろいろ理由をつけて……行かなかったと思います。『遅刻したから行かない』とか『お化粧が崩れたから行かない』とか。それで適当に時間をつぶして、帰ったらうそでもついて……のらりくらりと。ほんの小さな、でも大事な〝きっかけ〟があったから……」

 マグダレーネはそれを聞いて、たくさん思うことがあった。

 彼女はそこまで大きな影響を与えるつもりはなかった。

 それでも、彼女自身ひとにほんの小さな、しかし大事な〝きっかけ〟に人生の分岐点で出逢い、それが人生を大きく左右し、彼女のものの考えかたを変えるほどの大きな影響を受けた経験があるから、きっとこれは優理にとって、これからどんどん重要な意味をもつに至るのだろうと感じた。

 だから答えた。

「あたしたちはみんな、お互いに影響を与えあって生きているんだよ。あたしもむかし、そういう経験があった。だからってわけじゃないけど……ユーリ、きみもひとにそうしてあげて。〝だれかにしてもらってうれしかったことを、ほかのだれかにもしてあげる〟。それが肝心なことだから。これだって、受け売りなんだけどね」