りん、りん、りん、りん、りん、りん、りん、りん。
東京駅。
夕暮れ。
踏切。
汽車が蒸気をあげて通過する。
優理は踏切に立ってそれを見ていた。
汽車が去ってゆく。
湯けむりの向こうに、女の子が立っている。
黒いセーラー服の。
ぱちり。
優理は目を覚ます。
深夜零時、東京駅。
出入口のシャッターは降りている。
旅客はもちろんのこと、駅員もいない。
彼女は東京駅に、閉じ込められていた。
手を動かそうと力をこめる。
指のひとつも動きやしない。
彼女は駅の片隅で、しりもちをついて壁に背中をあずけている。
自働電話があった。
そこは自働電話のコーナーだった。
立ちあがって受話器をとり、五銭、一〇銭でも投入すれば電話ができる。
でもこの時間だと、交換手さんが眠っているかもしれない。
なにより全身が麻痺していて、それさえもできそうにない。
ひやり。
彼女の首筋を、冷たい気流がからめとる。
明らかにほかとはちがう温度と密度。空気の『かたち』がわかる。
手。
人間の両手。
うしろから彼女の首にかけられた、女の子の小さな両手。
うしろには『壁』があるはずなのに。
(ぅ……)
優理は苦悶の表情を浮かべる。『冷たい空気の手』が彼女のくびを締めつけ、息もままならなくなる。
ふと。
見ると水があふれる。
幻覚か、あるいは現実のなにかが夢に現れているのか、水道という水道が破裂し、波をなして押し寄せ、あっという間に駅内は純水で満たされる。
溺れる。
彼女は思わず息継ぎをしようと口を開く。彼女の『意思』がどうあれ自然の摂理は容赦なく彼女の口内に水を押しこみ、気管を征服する。
肺から残った空気が解き放たれ、水泡となって消え失せた。
ぱちり。
優理は目を覚ます。
ひどい動悸に荒れる呼吸。
昼。
お茶の水橋。
明治四〇年、夏。
水無川優理、一一歳。
夏休み。
東京女子師範学校。
「水無川先生、お子さんがいらっしゃっていますよ」
水無川実理。東京女子師範学校、英語教師。
彼女は連日の激務で遅くまで帰れない日が続いていた。
生徒が夏休み中でも、教師が休めるとはかぎらない。
この蒸すような暑さのなかで休暇もとれず、職場でも家庭でも悩みが絶えない。
なによりそれで娘に寂しい思いをさせてしまう自分が、嫌で嫌でたまらない。
いらだちを覚える対象は『自分自身』だ。
(好きは『近づきたい感情』。嫌いは『遠のきたい感情』。ひとは好きなものに近づき、嫌いなものから離れて成長してゆく。好きなものも嫌いなものも見聞きし、双方を等しく愛することを知る。それが『旅』。〝可愛い子には旅をさせよ〟です。あの子はわたしに近づくより、むしろ遠のかなければならないのに)
ひとしきり考え頭を抱え、答える。
「わかりました、行きます」
実理はお茶の水橋まで優理を連れて行き、話した。
「優理、いい子だからおうちで待っててって言ったでしょ」
「でも今日は帰ってくるって言ったよね」
実理は記憶を探った。
言った覚えはなかった。
しかしたとえ実理がそう言っていないとしても、優理にそう誤解させ待たせてしまったのなら自分の落ち度だ。
だから答えた。
「ごめんなさい。でも優理、今日は忙しいの。ほんとうに悪いと思ってる。でも、今日は帰って」
帰って。帰って。帰って。
まだ幼い優理の頭のなかで、その言葉が反芻した。
約束を破られた。そのうえこんな素っ気ない言い方。
自分勝手。
「もう子どもじゃないんだから。ひとりで汽車に乗って帰れるでしょう?」
もう子どもじゃない。もう子どもじゃない。もう子どもじゃない。
いい子。いい子。いい子。
いい子は子ども。大人はいい子とは言わない。
「さっきと言ってることちがうよ」
優理は指摘した。
「あたしは子どもじゃない。子どもじゃないから『おうちで待ってる』なんてしない」
実理はこの反抗期の娘の言い分も、わからないでもなかった。
「でもね、優理……」
「わかった」
優理は答えた。
「帰る」
実理はほっと胸をなでおろす。
「ありがとう、優理。駅はすぐそこだから、ひとりで帰れるよね?」
「うん」
「ありがとう。わたしは学校に戻るから、じゃあね」
じゃあね。じゃあね。じゃあね。
優理は答えた。
「じゃあね」
明治四五年、東京府東京市四谷区。
深夜零時。
ぽた、ぽたと液体が滴り落ちる音が聞こえる。
ガラスの破片が床に散らばり、窓という窓は締め切られ換気もされておらず、血生臭い空気が喉にからむようにたちこめている。
キッチンで、女の子が血だまりのうえにあおむけで横たわり、その親族と思しき女性が泣き崩れている。
実理が優理の屍体を、揺すっては呼びかけている。
彼女の手は血に染まっていて、それで涙をぬぐうものだから顔まで血で塗られていた。
優理はいま霊となって、その光景を見届けることしかできなかった。
そのとき障子からさしこむ光がひときわ強くなり、優理の屍体と実理を照らした。
月の光だった。雲が風で流されて、満月が見えていたのだ。
霊となった優理も、それに気づいて満月のほうを見た。
月からひとすじの光が彼女の目の前に集まって、そこにひとつの星をつくった。優理は両手のひらをうえにして、それを包むようにつかまえる。
暖かく、安心する光だった。
⦅これが『幽理の可能世界』だ、優理⦆
光は告げた。
優理はふしぎと驚くことはなかった。これが夢だとなんとなくわかっていたからだ。
だからたずねた。
(あなたは幽理を知っているの?)
⦅もちろん。なぜなら幽理も、そしてぼくもまた、きみの『心』の一部だからね⦆
(あなたはだれ?)
⦅ぼくはきみだよ。きみの『優しい心』『理知的さ』『善の側面』それがぼくだ⦆
(じゃあ、幽理は?)
⦅幽理はきみの『穢れ』『嫉妬心』『悪の側面』。毎日おふろにはいるのはなぜだろう。『穢れ』を洗い流したいからさ。幽理はきみがきみの身体と心から取り除きたいすべての要素を集め、凝縮した存在なんだ。だからきみは幽理が嫌いだし、避け、遠のき、いつも忘れたいと思っている⦆
(……うん)
⦅優理、きみは『いまここにいる理由』を、考えたことはあるかい。今日だけじゃない。人生のあらゆる契機、分岐点……きみは常に『選択』を迫られ『決断』してきたはずだ。そのときどうしてきみはそう『決断』しそれを『選んだ』のか……⦆
優理には難問だった。
(ないよ。考えるだけしょうがない。わたしは見る夢を『選ぶ』ことはできない。この夢を見ている理由なんてただの『偶然』。現実だって大して変わらない。いろいろなところで『幸運』に恵まれてきただけだもの)
⦅それはちがうよ⦆
光はきっぱりと否定した。
⦅現に優理、きみは二六歳まで生きたじゃないか。幽理は一六歳で亡くなってしまった。幽理はそれを『選んだ』……そしてきみはそれを『選ばないことを選んだ』んだ⦆
優理はひどく苦悩した。
(それはそうかもしれない。でも幽理のほうが『勇敢』だと思う。わたしはただ『決断』できなかっただけ。逃げて、逃げて……いまだってそう。惰性で生きているだけ。そんなに立派な『決意』があってそうしているわけじゃない)
⦅そうだね。幽理は幽理で、立派な選択をしたのかもしれない。でもきみも立派だ。優劣はない。一方が他方を優越感を覚えるほどすぐれているわけでもないし、同時に、劣等感を覚える必要があるほど劣っているわけでもないんだよ⦆
優理にもその考え方はわからないでもなかった。でも共感はできなかった。
⦅みんな知らず知らずのうちになにかを『選んで』いるし、知らず知らずのうちにだれかに『影響』を与えまた『影響』を受けてもいる。きみはいろいろなひとにいろいろな影響を受けて『選択』し、それがまたさまざまなひとにさまざまな影響を与えている。ほんのささやかな〝きっかけ〟でも、何年、何十年、あるいは何百年何千年という単位で見ると世界を変えるほどの大きな影響を与えることにもなるんだ。『未来』は小さな『選択』の積み重ねの先にしかないからね⦆
優理はそれを聞いていろいろと思うところがあった。そしてその月の光は続けた。
⦅考えてごらん。『もし今日マグダレーネと出逢わなかったら』『もし実理が英語の先生になっていなかったら』……無数の『偶然的真理』の真偽が反転した命題の組合せは二の冪乗個存在し、同じ数だけきみの『可能世界』も存在する。数えてごらん。きみの『人生の分岐点』の数を! 『一〇の選択肢は一〇〇〇の可能世界を生み』、『二〇の選択肢は一〇〇万の可能世界を生む』。『一〇億の可能世界』、『一兆の可能世界』……『きみの人生の分岐点』の組みあわせは、文字通り星の数ほど……『まさに宇宙の誕生』のごとく創発し、そのなかのたったひとつの……かけがえのない星のもとにきみは生まれたのさ。もちろんいいことばかりじゃない。ひょっとしたら優理、きみが二六歳の今日、橋で足を踏み外し、川で溺れて亡くなってしまった世界もあるかもしれない。でもいいことも悪いことも、すべて『優理の可能世界』をかたちづくるために必要不可欠なことなんだ。そのひとつでも欠けたらいまのきみはなかった。だからきみは『いまここにいる』んだ⦆
(ここ?)
優理はおかしくなった。
(わたしはいま、『優理の可能世界』にはいない。ここは『幽理の可能世界』。でしょ。だったらどうしてわたしはいま『幽理の可能世界』にいるの? ここはわたしが『望んだ未来』じゃない! 『忘れたい過去』『消し去りたい記憶』なのに!)
⦅いいや、これもまたきみが『望んだ未来』のひとつなんだ。だからこそきみの心には、いまだに『幽理の可能世界』が根づいている。もしそれを『選んで』いれば……ひょっとしたら『あったかもしれない未来』『あったかもしれない可能性』を忘れられずにいる⦆
(……わたしが、この……『幽理の可能世界』を……? うそ! わたしはあの子が嫌いなのに。ぜったいありえない!)
⦅幽理だって同じさ。幽理は強い『嫉妬』に突き動かされて行動しているからね。幽理にとってはきみの『優理の可能世界』こそが彼女の『望んだ未来』のひとつなんだ。でも、彼女はそれをけっして認めやしない。それに気づきさえしない。だから彼女はきみの世界を『消し去りたい未来』なんて言うんだ。そしてきみも、彼女のことを『忘れたい過去』と言う。だからきみたちは『心』のなかで争い、苦しみ続けている。それが『葛藤』きみと幽理は表裏一体なんだ。ただそれに気づいていないだけだ⦆
(……あの子は、わたしの……)
⦅そう。きみは幽理と、十年来の決着をつけなくちゃいけない。『心の決着』だ。そしてそれを望んでいるのは、ほかならない『きみ』なんだ。そしてそのために『きみの心』がこの世界を造りだしているのさ。きみは気づいていないかもしれないけどね。だからきみが幽理と『心の決着』をつけるまで、この世界は消えはしない。また明日からも毎晩悪夢にうなされる日々の繰り返しだ。それを乗り越え、先に進みたいんだろう? そのためにきみは『いまここにいる』んだから⦆