食後すこしだけ時間に余裕があったこともあり、優理はマグダレーネに御茶ノ水を軽く紹介することにした。このあたりには大學や聖堂といった特徴的な建物がいろいろある。しかしマグダレーネが興味を示したのは、優理にとってはなんでもない商店街だった。

「西洋の楽器だね」

 マグダレーネはお店に並ぶ楽器を見て懐かしそうにしている。

「ええ。近くに東京音楽学校があるんです。御茶ノ水は『音楽の街』とも言われるほど、たくさんの楽器が売っています。でも、高いですよ」

 彼女はどこか哀愁ただよう、悲しそうな目をしている。

「どうかしました?」

「いえ……むかし、楽器を習っていたの。それでね、ちょっと、懐かしくなっちゃって」

「そうなんですね」


 優理は彼女を連れてお茶の水橋へ向かった。

 お茶の水橋は神田川のうえにかけられた架橋で、橋のしたでは甲武鉄道の汽車が走り、橋のうえを東京市電の路面電車が走っている。

 御茶ノ水駅はお茶の水橋の南にあって、帝國大學へ向かうときにはここを北へのぼる。すこし時間がかかるが西の水道橋から歩いてくるということもできる。御茶ノ水のほうが近いのであえてそのルートをとる理由はほとんどないが、優理はとある事情から、急いでいなければそちらを経由することもよくあった。

 この橋を渡るのがこわいのだ。

 もちろん通学中にほんのすこしくらい渡るくらいなら問題はない。しかし長いこと橋のうえで立っていたり、神田川を見下ろした日にはくらりとなる。

 しかしマグダレーネが橋を渡るときに神田川に興味をもったので、優理はすこしくらいならと、震える手足と早くなる胸の鼓動をぎゅっと我慢し、彼女とともに橋の中央で川のほうを見た。

 ふたりが橋のうえから神田川を眺め、もくもくと白い煙をあげて出車する汽車を見送ると同時に、ふたりの後ろを路面電車がゆっくりと通過した。

 こういった橋には落下防止のため手すりが備えられている。しかし、それで防げるのは事故だけだ。故意に乗り越えようと思えば容易に飛び降りることはできる。容易に、とは言っても単なる力学的な意味での障害はないという意味だ。

 そうすると心に決めさえすれば、その障壁はないにも等しい。

「高校生のころ、よくこの橋から川を眺めて考えていました」

 優理は告白した。

「人間って、弱い生き物なんです。川に落ちただけでもときにはころっと死んでしまう。だからこの手すりをまたいで飛び降りたらどうなっちゃうんだろう、って」

 マグダレーネは観光客でも医師でもなく、ひとりの友人として耳を傾けていた。

「こうやって高いところから見ると川はとてもゆっくり流れているように見えます。でもいざ川の流れに身を任せたら、きっともっとずっと激しいことに気づくと思う。表層ではこれほどおだやかに見えても、深層では泳ぐこともままらないような渦がうねっている。真夏でも体温があっという間に奪われて、真冬に指先がかじかんで動かなくなるように、全身が麻痺して溺れてしまう。そういう瀬戸際になって初めて『生きたい』って思えると思うんです」

 マグダレーネはただ黙って聞いていた。

「……いえ……ちがいます。もう、うそをつくのはやめます。もう『自分を騙す』のは、やめます。助けてもらいたいんです。そういう瀬戸際になって初めて、きっと……助けてもらえるから」

 マグダレーネはどう答えようか迷った。

 ただ、感じたことを言った。

「あたしの思ったことを言うね。まちがっていたらごめん。あたしは、きっと、だれかのことを思い浮かべているのだと感じた。もしそうだったら、だけど……口にしないことは伝わらないと思う。だれかに助けてほしいなら、素直にそう言わなきゃ。でも、きもちはわかるよ」

 優理は当時はどうあれ、なんだかんだいまはみずからを客観視できる程度には成熟していた。

「そうですね」

 彼女はぐいと手すりに足を引っかけのぼり腰かけて、ちょうど手すりに座って見下ろすように、マグダレーネのほうを見た。

 今度は医師として、マグダレーネは真っ青になった。

「あ、危ないよ、ユーリ。また発作が起きたら……降りて!」

「平気ですよ。それに、そのときはそのとき。それまでだったってことだと思うんです」

 彼女は空を見上げ、ちぎれてはくっつくように動く雲を見た。

 ふだんは気にも留めない。それでも上空では驚くほどの速度で風が吹き荒れていて、雲もそれに乗り、想像よりもずっと速く動いている。

「宇宙は過酷な世界なんです。この地球の、東京の、市街地のその一端でさえ、一歩でも踏み外せば死に直結する荒れ跡が広がっている。『川の流れにはあらがえず』『山のうえでは呼吸もままらない』。『森で迷えば飢えて痩せこけ』『久しく雨が降らなければ作物は育たない』。いまだってそうです。たった五分間居眠りする。ほんのちょっとでも授業に遅刻する。それだけで終わっちゃうくらい『あたしの人生』なんて儚いものなんです」

「そんな屁理屈言わないで、ほんとに危ない。降りて!」

 優理は目をつむって胸に手をあて、うつむきがちに言った。

「それに万が一そうなっても、必ず死ぬわけじゃない。五〇パーセントの確率で橋のほうに倒れて、生きることができるかもしれない。そしてそれが『あたしが選ぶ』よりも確度の高い『可能性』だとも思わないんです。ここで生きても、たとえば帰りの汽車を待っているときに発作が起きて、死んじゃうかもしれない。そのふたつにどんな違いがあって、どれほどあたしの選択が『未来』に影響するのでしょうか? 人間の『意思』なんて……コイントスと比べてなにか特別なものでもありません。『あたしの選択』なんてコインやダイスで決めても、大した違いがないんです」

 マグダレーネはそれを聞いて、頭に血がのぼるのを感じた。

 もちろん、彼女には優理の意思を否定したり、いろいろと理屈を並べて彼女になにかを強要する権利はない。

 マグダレーネが怒りを感じたのは、彼女の『意思』でそうするならともかく、みずからのいのちを軽んじるようなその行為と世界観だった。

 マグダレーネには彼女の『意思』を否定することはできないし、するつもりもない。

 それでも彼女には、いずれにしても現にみずからの意思で『選ぶ』ことができるのにもかかわらず、まるで見当違いな宇宙の超越性を持ち出して、そんなふうに『未来を選ぶ』ことなんて彼女にはできないといった言いぐさで……それも現に一歩間違えればいのちにかかわる危険な行為をする彼女に、マグダレーネは怒りを感じたのだ。

 もちろんそれが見ず知らずの赤の他人であれば、そういう生き方もあると尊重することもできる。

 だが優理はちがう。

 そしてそれじゃあ浮かばれないひとを、マグダレーネは知っているのだ。

「ドクター・ストップ。ユーリ、降りなさい。命令だよ」

 しかしそれに対して向けられる優理の目。

 冷たい。

 マグダレーネはそのとき気づく。

 明らかにその優理はさきほどまでの優理とは違っている。

 冷たく、攻撃的で、ひとを寄せつけず孤独を好む……。

 最初にマグダレーネが彼女に感じたそれを、何倍にも増幅したような。または意識的にひた隠しにしてきた心のうちを、いま包み隠さず見せているような。

 あるいは一六歳のころに止まってしまった時計の針が、いまやっとふたたび刻み始めたような。

「お久しぶりです、バウムガルテンさんあたしのこと、覚えていますか?」

 それは優理ではない。

 マグダレーネはそれを確信した。

「だれ……だれなの? ユーリ!?

「優理、ここだけは……ここだけは、だめなんです。気を失うほど強く、強く『記憶』が蘇ってきてしまうようで。あたしは優理の『記憶』のなかにいる。『記憶』が強く蘇れば蘇るほど、あたしの意識も強く、明瞭に、くっきりとしたものになる。資料、お見せしたでしょう? 残念ながら優理はそのことを覚えていなかったようですが」

 自動症。

 優理はこの会話を、覚えていない。

「床に就くとき、夢とうつつの境が反転する。二度と思いだすまいと優理の『心』の奥底にしまいこまれた『記憶』があたし。優理の『過去』。優理は、あたしが嫌いなんです。だから忘れたがってる。あたしも優理が嫌い。だからいつかこうして身体を奪って、好きにして、二度と元に戻らないくらいぐちゃぐちゃにしてやりたいって、ずっと思ってた。夢のなかでしか覚えていないことがある眠りに就くときにしか思いだせないことがあると感じたことはありませんか? あるとすれば、ご注意ください。それはきっと、あなたが大嫌いな『あなたのなかのだれか』が、あなたのことをどうにかしてやろうとずうっと考えている、あかしなのかもしれませんから」