御茶ノ水のおそば屋さんで、マグダレーネは優理の悩みを聞いていた。
優理はこのごろ寝つきが悪く、いざ寝つけても、毎晩ある『女の子』が夢に現れるのだと言う。それはまるで『過去に追いかけられるような』悪夢で、うなされ、長く眠れず、それが原因で心身ともに疲弊しきっているのだとも。
マグダレーネがその話を聞いて感じたのは、彼女にはほかに、つまり現実でより大きな悩みがあって、それが夢に影響して疲れがとれない悪循環に陥っているということだ。
とはいえそれがなんだかはマグダレーネにはわからないし、たとえそうだとして、その原因を取り除くのは一筋縄ではいかないだろう。『悩みの種を解消してぐっすり眠れば』なんて〝言うは易く行うは難し〟で、無責任なもの言いというものだ。素人ならともかくたとえそれが専門でないとしても、医師の彼女がそんなことを言うわけにはいかない。
だからマグダレーネはまず、おのれの身の上を話すことにした。
「あたしもむかし、そういうことがあった」
優理は黙って聞いていた。
「さまよえるオランダ人、って知ってる? 英語だとフライング・ダッチマンって言う、リヒャルト・ワーグナーのオペラ」
優理は聞いたことはあったが、観たことはなかった。
「ええ、名前くらいは」
「もう半世紀以上もむかしのお話だし、この際あらすじをかいつまんで話すわね。むかしオランダ人の船乗りがいて、ある航海の折に、南アフリカで不幸があったの。でもかれの魂が現世から解き放たれることはなく、幽霊になってもずっと航海を続けている。それがさまよえるオランダ人。かれにかけられた呪いを解き、かれの霊魂が救われるには、穢れない乙女からの永遠の愛が必要だった。それがゼンタ。ノルウェーの娘。それからいろいろあって、ついにゼンタは海に身を投げて、オランダ人への『永遠の愛』を不滅のものにしたのよ」
優理はどちらかといえば科学が好きだし、こういった物語にはあまり興味がなかった。もちろんたまたま機会があれば観ることもあったし、そのときはおもしろいと思うこともあったが、積極的に観ようと思うこともあまりなかった。
それでも、マグダレーネの話したあらすじは、ふしぎなお話だとは感じた。
「それでね、これはあたしの解釈だから、あんまり本気にしないで聞いてね。このお話はいろいろな歴史的背景や心理的なものを暗喩しているの。たとえば、ゼンタは『幽霊』のとりこになって『幽霊』のお嫁さんになりたいと言いだす。そして最期は海に身を投げてしまう。もしその『幽霊』がゼンタにしか見えないものだとしたら……どうかな」
優理はそれを聞いて、自身に重ねてしまいいろいろと感じるものがあった。
優理はうつむき加減に答えた。
「……希死念慮……」
「そうだね。最近じゃ『心霊現象』って、言うよね。『心』の『霊』ってこと。ただ単に『幽霊』と呼ぶのではなくわざわざ『心霊』なんて言葉が造りだされたのは、現代の科学はそういった現象に、ある種の『説明』が与えられるからだよ。『幽霊』は心理的なものなの。だからね。『いる』か『いない』かと言えば『きみにとってはいる』し『あたしにとってはいない』、それは『不条理』に思えることで、なおかつ、矛盾せず両立することでもあるんだよ」
食後、優理はすこしだけマグダレーネに心を開いていた。
食事というものはふしぎなもので、いちどともにするだけでも心の距離は大きく縮む。
それは否が応でも食事中はお互いのことを意識せずにはいられないからかもしれない。同じ空間で顔を見合わせ会話をしながら、ほんのひとときでも同じ目的をもってなにかをするという経験が大事なのかもしれない。
とにかくふたりは日本語ではなくドイツ語で話していたこと、そしてドイツでの習慣を聞きかじりとはいえ知っていたことで、優理は勇気をもって名前で呼びあうを提案した。
「あの、バウムガルテンさん……優理、と呼んでいただけないでしょうか」
マグダレーネはぎょっとした。すこし古い定型文ではあるものの、たしかにドイツではそういった習慣はある。
ある程度親しくなったということを確認する、儀式のようなものだ。
「うん、いいよ。じゃあユーリ、これからはあたしのこともマグダレーネって呼んでね」
優理はうれしそうに頬をゆるませた。
「はい、よろしくお願いします、マグダレーネさん」
「さん、なんていいよ。マグダレーネ、って呼んで」
優理は恥ずかしそうに応じた。
「……はい、マグダレーネ……さん」
マグダレーネはおかしくなった。
「あは。ま、それでもいいよ。とにかくよろしくね、ユーリ。もしこれが今日一日かぎりのことになるとしても、とっても素敵で、充実した一日だと感じたよ。いきなり押しかけちゃったのはあたしなのに、ごめんね、そして、ありがとう」
「いえ、こちらこそ。こんなふうに初対面のひとといきなり話すことに慣れていなくて。でもわたしももし外国に旅行するならきっと現地のだれかと話してみたいと考えるだろうとも思ったんです。だから気にしてませんし、それに、わたしとしてもいろいろ得るものがあった一日だと思います。こちらこそ、ありがとうございます……マグダレーネ」