汽車のなかで優理がいきなり脱力し倒れ、マグダレーネは曲がりなりにも医師として、彼女を介抱していた。彼女はただ睡眠不足がたたって眠っているだけのようにも見えたがマグダレーネにはどうもそれだけでもないように思えた。眠っている彼女は苦悶の表情を浮かべているが、それはさしたる理由ではない。その直前にいくらか不自然なやりとりをした覚えがあったからだ。
いま優理はちょうどマグダレーネに膝枕するような格好で横になっている。
優理の症状は五分ほど続き、ちょうど飯田町駅を発車するときに目を覚ますと、申し訳なさそうに頭を抱えながら窓にうなだれた。
「ごめんなさい、いえ、ありがとうございます。最近眠れていなくて……あれ」
優理は手元を見て青くなった。講演資料がなくなっている。
優理は向こうの座席にマグダレーネがおらず、いつの間にか隣に座っているのを見て、重ねて驚く。彼女の記憶では、ほんの数分まえには向かいあうように座っていた。
「あれ、あ、すみません。資料、知りませんか?」
「これのこと?」
優理に言われてマグダレーネは講演資料をとって見せた。
「は、はい。あ、ごめんなさい。ご迷惑をおかけして……」
「いいよ。でもさっきのやりとり、覚えてないの?」
「なんのことでしょう」
「あたし、資料を読ませてって言ったよね。それで隣に座ってそれを貸してもらったの」
優理の記憶にはなかった。
「そしたら突然倒れて……」
優理はさーっとなった。
(やってしまった)
彼女はどう言い訳しようか迷っていた。初対面でこんな失礼なことをしてしまっては。それに相手はまだ子ども。
マグダレーネは胸ポケットからペンライトをとって、ずいと彼女に顔を近づけた。
「ちょっとまぶしいけど、我慢してね」
「は、はい」
マグダレーネは彼女の目を開き、ライトをあてて瞳孔の対光反射を確認した。
「問題なし」
「な、なんでしょう」
「……あたし、じつは医師なんだよ」
優理はこの小さな女の子のおままごとにつきあうのがあまり乗り気になれなかった。
マグダレーネは続けた。
「信じてくれなくてもいいけどね。身長が低いから子どもっぽく見られるけど、これでももう立派な大人なの。あたしもあたしで、その……身長が伸びない病気なの」
優理はたしかにそういった病気があることは聞いたことがあるし、この子の知識はただの子どもとは思えないものがある。うそをついている可能性もあるが、あえて疑う理由もない気もするし、それをありのままに受けいれれば劣等感を覚えずにも済む。それに年齢を聞こうとも思わないものの、知識量から言って、おそらく年上なのだろうと思った。
ただそういったことを考えず外見から頭ごなしに年齢を決めつけて無愛想な対応をしてしまった彼女自身が、すこし恥ずかしくなった。
「そうなんですね。お医者さんで物理学にもお詳しい。立派で、尊敬します」
「ごめんね。きみみたいな症状のある病気には心あたりがあるの。ナルコレプシーとか、最近ではカタプレキシーっていうのもあるね。眠っている状態で会話するのは自動症って言って、そのあいだに起きたことは覚えていないけど、はたから見たらまるで起きているときと区別できないくらい流暢に話すこともできるの。逆に身体は眠っているのに意識があっていろいろ覚えているけど動けない、いわゆる金縛り的な症状とかね」
優理の自覚症状のいくつかはそれに該当した。
「でもね、あたしはこの国の医師免許はまだ取得していないの。だから正式にはきちんとしたこの国のお医者さんに相談してみて。ただ睡眠不足もそうだけど、精神的なものってときには身体に障ることもあるから、初対面であたしが言うのも変だけど、あまり無理をせず、身体を大切にしてね」
マグダレーネにそう言われて優理はなんだかこの子にすこしだけ心を開いた気がした。医師というのもうそでもないようだし、身の上相談をしても悪くないきもちになった。
そうこうしているうちに汽車は御茶ノ水に到着し、汽笛が鳴りふたりはともに降りる。
優理はお昼をとってから帝國大學へ向かう予定で、だいぶ時間には余裕がある。
このマグダレーネ・バウムガルテンというふしぎな子との話す機会は、もうこの先一生おとずれないかもしれない。
これもなにかの縁なのだとすれば、すこしくらい、話題づくりにでも。
「あの、せっかくなのでランチでも、ご一緒しませんか」
マグダレーネはもともと連理にせめてもの恩返しをしたくて来日したので、ほかに急ぎの予定はあるにしろ、偶然ではあるものの地理的には目的地に近いので、時間には余裕がある。さらに連理ゆかりであろうこの彼女にうりふたつの女の子の頼みとあれば断る理由もない。ふたつ返事で承諾した。
ふたりはそこでおそばを食べることにして、江戸そばの専門店を銘打つお店に入った。
マグダレーネにとって東京は初めての土地だった。そこで『江戸』という漢字をしきりに目にしたことで、このあたりがかつて連理が言っていた『江戸』なのだとわかった。
「ここが『江戸』っていうところなの?」
優理はすこしおかしくなってしまった。
「むかしはそう呼ばれていたそうです。いまは東京府、って言います。看板に江戸という名前を掲げているところは当時から経営している老舗だったり、そうでなかったり。まあおしゃれみたいなものだと思います」
「ふうん」
ふたりは適当な席に腰かけ、マグダレーネはメニューに目を通して難色を示した。
「これはどういう意味? なんて読むの?」
メニューを机に開いてマグダレーネは質問した。彼女が読むことができるのは平仮名と片仮名、および筆画が区別しやすい楷書体や明朝体の、それも一部の漢字にかぎられた。そのため時刻表などを読むことはできたがこのお店のメニューは草書体の漢字と万葉仮名で書き下されておりは彼女には難易度が高かった。
「鴨せいろ、ですね」
「カモセイロ?」
「鴨のお肉がトッピングされたせいろそばです。せいろっていうのはですね……」
優理はそれぞれていねいに説明した。
注文したあと、優理はうとうととしていた。マグダレーネが異変に気づいてひょいと机を乗りだし彼女の顔のまえで手をひらひらすると優理ははっと我に返って目を覚ました。
「平気?」
マグダレーネがたずねると、優理はうつむいた。
「いえ……」
優理は動悸を感じた。心拍数があがっている。
「汗びっしょり。顔色悪いよ。また悪夢を見たの?」
「……ええ。いま、何分くらい経っていましたか」
「二、三分かな」
「わたしには、二、三時間は経過していたように思えました」
マグダレーネは心中を察し、かける言葉も見つからなかった。
「日に日に悪夢のなかでの体感時間が伸びているんです。そのうち二、三日、二、三年、そういうふうに感じるようになるのかと思うとおそろしくてたまりません」
たかが夢、されど夢。夢というものはそのときの体調や感情を増幅させる作用がある。楽しいことがあった日には楽しい夢を見るものだし、悲しいことがあった日には悲しい夢を見るものだ。
だから不調なときこそ『悪夢』を見る。眠りが浅くなり、疲れはとれなくなる。
それはまだ人間がほかの動物とそう変わらなかったような時代に、外敵の襲来に備えるための機能なのかもしれない。危険な状況でぐっすり眠って捕食されるよりは、もがき、苦しんでもあがいたほうが生き残る。
夢のなかで見る『悪夢』は、そういった『恐怖』を体現したものだ。
どんなに理性的な人間でもとうていあらがえるようなものではない。
「……どんな夢を見るの?」
マグダレーネは聞いていいものか迷った。ひとには知られたくも聞かれたくもないことだってたくさんある。
それでも聞いたのは、たとえそれが彼女の求めていることでないとしても、彼女の助けになりたいと感じたからだ。
優理は静かに答えた。
「お医者さんと聞いて、せっかくなので助言を求めたいのですが……もちろん、あなたの言うように正式にはまた別にするとして……いいでしょうか」
その答えでほっとしたのはむしろマグダレーネのほうだ。
彼女は連理ほど、だれかを思いやり手をさしのべるということには慣れていない。
さしのべた手を、振り払われることがこわい。
裏目にでて、なにもしないほうがよかったと『後悔』することを『おそれ』ている。
マグダレーネもまた『自分自身』をおそれていたのだ。
「かまわないよ。もちろん非公式とはいえ医師として最低限の道徳規範として守秘義務は守るし、お金もとらない。聞かせて」
「……悩んでいることがあるんです」
優理は打ち明けた。
「こういった症状を最初に自覚したのは、思えばもう一〇年もまえのことです。でも当時は、ただの寝不足くらいにしか思っていなかった。ひどくなったのはちょうど四年前からです」
マグダレーネは黙って聞き、彼女の言葉の続きを待っていた。
「……四年前から、夢のなかに、ある女の子が登場するんです。その子が現れてから……日に増して……」
優理は動悸が激しくなり、鳥肌が立ち、顔面蒼白になる。傍目に見ても調子が悪そうでマグダレーネは心配になり声をかけた。
「平気? 顔色、悪いよ」
優理はハンカチで汗をぬぐった。
話し、言葉にすると、そのたびに記憶の奥底沈んでいた……心の奥にしまい、押しこめ目をそらしてきた『恐怖』を思いだし……彼女は気を失いそうなほどに胸の鼓動が速く、激しくなることを感じた。
いまではもう、その『女の子』の名前、顔、立ち振る舞いから所作のひとつひとつまで現実味を帯びて想起できる。まぶたを閉じればその『女の子』が脳裏に浮かぶ。
忘れたいのに忘れられない。毎晩床に就くと、その『女の子』がまた現れる。また優理を悩ませ、苦しめる。
その『女の子』の名前を口にしてしまうと、もう戻れない気がする。
いちど記憶に刻みこまれた『恐怖』は、二度と忘れられなくなる。
それがこわくてこわくてたまらない。
優理は息を荒げてたずねた。
「……バウムガルテンさん、『幽霊』って、いるのでしょうか」
マグダレーネは素っ頓狂な声をあげた。
「あ、っはは。いきなりなんの話?」
「わたし、もうあの子が『幽霊』としか思えないんです。恨まれてる、憑かれてる。夢のなかで毎晩、無抵抗なわたしを執拗に苦しめてくる! もうわたし……あの子が『幽霊』だと、そうとしか思えないんです」