優理とマグダレーネを乗せた汽車は順調に御茶ノ水へ向かっている。
土曜日のまだ午前中で、青空が広がっている。汽笛が鳴れば窓から白い蒸気がもくもくとあがるのが見えた。
しばらく優理とマグダレーネはふたりきりで、ひと言だって話すこともなかった。
優理は眠くうとうととしていたし、またこの小さな女の子と話す理由もなかった。
しかしマグダレーネにとってはすこし状況が違った。彼女には医学の心得があり、この水無川優理という女の子が、ひどい悩みで夜も眠れない状況にあるということは、彼女の唇を見ればわかった。
唇は不健康に青みがかっている。口紅で紅く見せているが、ときおり口を開くときには隠せない。目元もやや黒ずんでいて、肌も荒れ気味だ。
睡眠不足と栄養失調はまちがいない。
だからどちらかといえば、すぐにでも彼女の診察をしたかった。それでも医者は患者の意思を無視してまで治療する義務も権利もないし、第一この国で医師として活動するには先に免許を取得する必要がある。
もちろん患者本人にせがまれたり、外洋の航行中などやむを得ない理由がある急な状況は例外だが、いまはそれに該当しない。
だからそれをあえてたずねるようなことも、彼女はしなかった。
優理は汽車の揺れが心地よく、連日の疲れもあって、気づけばうとうとと眠りについてしまっていた。
ぱちり。
りん、りん、りん、りん。
鈴の音が鳴る。
優理が目をぱちくりさせると、すでに日は落ちていて細かい雲が満月を陰らせている。
懐中時計。深夜零時。
帝國大學の講演はとうに終わっている時刻。そこは終点。東京駅。
(いけない)
そう思って彼女が動こうとしても、金縛りにあったように動くことができない。
ぞく、ぞく。
優理は恐怖を感じる。
(また。また『あれ』だ)
彼女は目をつむる。『これ』がいつ起こるかはわからない。日中いきなり起きることもある。『これ』が起きると、とにかくひどい悪夢を見て主観的には永遠とも思えるほどの時間が経ったあと、全身汗びっしょりになって目を覚ますのだ。
そしてそれは、ときには五分程度の短いあいだに見た悪夢だったりする。
ナルコレプシー。
この四年間、毎日のようにこれが起こる。日に増して症状は悪化し、ときには死の危険さえ感じる。
それでも目をつむって『覚めろ、覚めろ』と念じ続ければ、いずれは目を覚ますことも経験則としてあった。
もっとも危ういのは『それ』を目にしてしまうことだ。
⦅起きて⦆
聞こえる。
(――きた――)
⦅起きて、起きて、起きて、起きて⦆
(――覚めろ、覚めろ、覚めろ、覚めろ――)
⦅目を開いて、耳を貸して、見て、見て、見て、見て、聞いて、聞いて、聞いて、聞いて⦆
(――見るな、見るな、見るな、見るな、聞くな、聞くな、聞くな、聞くな――)
ひんやり。
彼女の頬に、はっきりと感じとれる手のかたち。
触れている。
冷たい。
⦅優理、ずるい、ずるい……見てよ……あたしを……あたしの目を!⦆
ぴったりと閉じられたまぶたに、めじりに、冷たい指が沿って動く。
ぱちり。
目を開く。
優理の目前に、唇が触れ合うほどの距離で……『彼女』がいた。
肌は人形のように白く、黒いセーラー服を着ている。
前髪は眉ほどの高さで揃えられていて、髪は伸び放題で床にも届いている。
眼孔には、眼球と呼ぶべきものがなくぽっかりと空洞になっていて、ブラックホールのように吸い込まれるあらがいがたい魅力を放っている。
優理は、その眼孔から目をそらすことができない。
彼女はうれしそうに頬をゆるませた。
⦅あは。やっと『あたし』を見てくれた⦆
水無川幽理、享年、一六歳。
それが『過去の自分』なのだと、ふしぎと優理にはわかった。
言葉を発すことも、指ひとつ動かすこともできない。
それでもどういうわけか『彼女』と意思疎通することが、優理にはできる気がした。
(幽理……もう消えて! わたしを苦しませないで!)
⦅あは。『苦しい』? よかった。あたしはそのために『いまここにいる』んだから⦆
(幽理、もう、いいでしょ。満足でしょ。わたしは……)
⦅満足じゃない。『あなたが死ぬまで』あたしは満足しない。だってあなたは、あたしが『閉ざしたかった未来』にいるんだから⦆
(なに、なにを……言ってるの)
⦅あなたがいる『優理の可能世界』を、あたしは消し去りたいの。だからずっとあなたの『心』のなかにいる。あたしはあなたが死ぬまでずっと、一生あなたを追いかけ続ける。過去から未来を『永遠に』……『あなたの心のなかで』……⦆
(幽理、あなたがなにを言ってるのか、ぜんぜんわからない。でもね、わたしだっていまぜんぶがぜんぶ、満足ってわけじゃない。いつでも最高に幸せで、楽しく笑っていられるわけでもない。『あのとき死んじゃえばよかった』って思うことは何度も何度もあるよ。だから『幽理の可能世界』がうらやましくなることだってある。でも……それが『正解』ってわけでもないと思う。『絶対的な正解』なんて、ないんだよ。ただわたしにとっての『最良の世界』を定義づけることはできる)
⦅それが許せない。もし『優理の可能世界』が最良の世界なのだとしたら、あたしのいる『幽理の可能世界』は最悪の世界。『あたしだけ最悪な思いをする』なんて、ぜったいに許せない! だからあなたにもそれを味わわせてやる⦆
(それは、できないんだよ、幽理。わたしがあなたをこちらの『世界』にひきこむことができないように。だから幽理、もうわたしを『過去から追いかけてくる』のはやめて!)