一九一二年(明治四五年)、深夜零時、東京府。

 水無川(みながわ)幽理(ゆうり)、一六歳。

 彼女はこのごろ毎晩のように悪夢にうなされていた。天の川の向こうから地獄蝶が現れ彼女にこう告げるのだ。

⦅眠らぬかぎり夜は明けず、覚めぬかぎり朝はおとずれない⦆

 そのたびに彼女はこう聞き返した。

「どういう意味……?」

 彼女はすくなくとも、主観的には寝つけない時間が長く続こうとも、深夜三時には意識を失うように眠りに落ちることができていた。そして翌朝になればまた学校へ行き、周囲からの過度な期待と重圧に押しつぶされそうになりながら、へとへとになって帰ってきたとき、門限をちょっとでも過ぎればまた叱られるのだ。

 そしてこの地獄蝶も、同じ言霊を機械のように繰り返すばかりで、ちっとも彼女の質問には答えてくれない。

 しかし今日ばかりはすこし違った。

⦅七回忌よ⦆

「なな、かい……? だれの?」

⦅幽理、あなたの。今日はあなたの七回忌よ⦆

「あたし?」

 幽理はおかしくなった。

「あたしは生きてるよ。七回忌っていうのは、亡くなったかたの」

⦅そうよ。あなたは亡くなったの。六年前、今日ここでね⦆

 そう言われると幽理はこのごろ起こるおかしな現象に納得のいく説明を与えられる気がした。物理法則を超越しているとしか思えない、ポルターガイスト。言葉を話す地獄蝶の存在。

 なにより幽理はそれがほんとうだとしても、悲しんだり驚いたりせず、むしろいろいろな悩みから解放されたという安らぎすら覚えるほど、すんなりと受けいれることのできる心の準備があった。

「じゃあ、うまくいったんだね」

 幽理はぽつりと言った。

「死後の世界なんて信じてなかったけど、ここがそうなんだ。じゃあ、あたしはこれからずっとここで過ごすことになるんだね」

⦅いいえ⦆

 地獄蝶は答えた。

⦅あなたの魂がいまだ解き放たれないのは、深層心理に未練が残っているから。もしそれを解消することができればあなたの魂は解放され、消失し、苦悩を感じることのない極楽浄土で、今度こそ魂の安らぐ永遠の眠りに就くことができるわ⦆

 しかし幽理には心あたりがなかった。

「地獄の法則がどうなっているのか知らないけど、あたしはうらみつらみを晴らそうとは思わないよ。もちろんそういった未練がないとは言えばうそになるかもしれない。でも、だからっていま現に生きているひとにそれをぶつけるなんて……あたしはしたくない」

⦅そうじゃないわ⦆

 地獄蝶は世界の映像を見せた。それは幽理の瞳の水晶体に投影されるように彼女にだけくっきりとその光景が見えた。

 春。二二歳の水無川(みながわ)優理(ゆうり)。晴れ着姿で大學の桜の木の下を、友人たちと一緒に歩いている。

⦅幽理、あなたはあのとき、『死ぬこと』を選んだ『可能世界』の優理なの。でもそれを『選ばなかった』世界もある。それがあなたがいま見ている彼女、水無川優理。あなたが囚われる魂の牢獄⦆

 幽理はそれを見て、さまざまなことを感じた。

 後悔、憧れ、喜び、悲しみ。

 嫉妬。

 二二歳の優理は楽しそうにしている。笑っている。幸せそうにしている。

 でも幽理はそうではない。つらく、不幸で、泣いている。

 嫉妬。嫉妬。嫉妬。

(どうして? どうしてあそこにいるのはあたしじゃないの?)

 許せない。

⦅幽理、わかった? あなたの『未練』。それは『後悔』。あの『可能世界』の優理だけがあなたを置き去りに幸せになるなんて許せないでしょ。ねたましいでしょ。たった一度の『選択』の違いがここまで大きな差を生むなんて理不尽だと思うでしょ。生まれも育ちも同じなのに『それだけ』で置いてきぼりにされるなんて、不公平だと思うでしょ⦆

 許せない。許せない。許せない。

 そう、許してはいけない。ほかのだれがどんな富を手にしてもいい。でもほかでもない『自分自身』が幸せになる未来なんて、ぜったいに認めてはならない。もしそれを認めてしまったら、もしそれが『ありもしない未来』『ありもしない可能性』でなかったのだとすれば、どうして幽理はおのずと未来を閉ざしてしまったのだろうか?

 そんな未来はあってはならない。『ありもしない未来』があってはならない。

 だから閉ざさなければならない。優理が幸せになる未来なんて、幽理が閉ざさなければならない。

 倒すべき敵はまさに『自分自身』なのだ。

 いま幽理の心のなかに、ふつふつと怒りの炎が燃えたぎりつつあった。

 地獄蝶は彼女の復讐心に呼応してひときわ力強く光り輝き、活き活きとしていつになく楽しそうに喜んでいる。

⦅そう、その意気よ。怒るの。心の底から叫ぶよう力強く感情を爆発させるの! それがわたしの力になる。わたしはあなたの『心』。わたしを呼んだのは幽理の『心』。あなたは優理に復讐を果たすために『いまここにいる』んだから!⦆