優理は鉄道で帝國大學へ向かおうと、四ツ谷駅の待合室で待っていた。甲武鉄道の汽車に乗り、東京行きの路線で御茶ノ水へ向かうのだ。
甲武鉄道は一九〇六年(明治三九年)に国有化され中央本線と改称されたが、当時からこの路線を利用してきた優理には、どうにも慣れることができずにいた。
この路線では蒸気機関車だけでなく、電気を動力として走る『電車』というものが併用されていた。日本全体で言えば『電車』はまだ多数派とは言えないが、蒸気機関車よりも省エネだとかエコだとかなんとか、とにかく日に日に目にする機会が増えていた。とくにこの路線ではもう『電車』のほうが多く走っていると優理は体感していた。
優理にとって『電気』の力で世界が変わるさまを間近で見ることはうれしくありつつもどこか子どものころの世界が削られ失われていくことに不安を覚えてもいた。
未来では蒸気機関車なんて、走らなくなってしまうのかもしれない。
彼女は過去にすがりつくよりも未来に踏みだすことが合理的だと考えていた。彼女自身がどうあれ、すくなくともそういう世界観に憧れているという自覚はあったし、そういう世界に進んでいくべきだと考えてもいた。
それでも、否が応でも押し寄せるようにやってくる『未来』よりも、まさに、いまここでしか体験できない『現在』あるいは失われてしまうかもしれない『過去』をすこしでも大切にしようという感覚があることも、否定できなかった。
時刻表を見ると、甲武鉄道を汽車が走ることはもうほとんどなくなっていた。みずから『選んで』この時刻にこなければ、ちょっとでも『遅刻』したらそれだけで、『過去』はあっという間に過ぎ去ってしまう。
だから彼女はまさにいま、ほかでもないこの日この時間にここにいることを『選んだ』のだ。
やがて汽笛を鳴らし蒸気機関車が現れたが、優理の向かう方向とは逆の、吉祥寺行きの汽車だった。
停車した機関車から白い蒸気がけむり、ぞろぞろとひとが降りてくる。
そのなかで小さな西洋の貴婦人マグダレーネ・バウムガルテンはひときわ大きな存在感を放っていた。彼女はいま、ちょうど京都からはるばるやってきて東京府の役所で水無川実理という人物について聞いてきたばかりだった。
彼女が『今日』東京にきたことは偶然ではなかった。連理がいるにしろいないにしろ、どの道東京にくる予定は立てていたのだ。それは帝國大學での特別講演があると聞いてのことだった。四谷で実理さんに挨拶をして帝國大學へ向かうには、道に迷わないとしてもかなりぎりぎりのスケジュールだった。滞在にも期限がある。
だから予定外のことをひとつでもする時間はないにも等しかったかったし、予定通りに挨拶して予定通りに帝國大學へ向かうつもりだった。予定を変える暇も理由も、あるいは変えようという意思も、なかったのだ。
よほどのことがなければ。
四ツ谷駅で彼女は、待合室にいる古い友人の面影を残す少女を見た気がした。
(レンリ……?)
マグダレーネは目を疑った。両眼をごしごしこすり、まぶたをぱちくりさせてじっくりと見る。連理は生きていたとしてももうおばあちゃん。あんなに若々しいわけもない。
しかし彼女はどこをどう見ても連理の生き写しのようにしか、マグダレーネには思えてならなかった。
数分後には東京行きの汽車がやってきて、優理は予定通りに乗車した。
汽車はちょうど四人が向かいあって座ることができるような座席が左右に並んでいる。しかし乗客はそこまで多くなく、各座席にひとりかふたり座っている程度のものだった。
座席が向かいあうかたちで交互に配置されているため、その四人乗りの空間はほかとは分けられたある種の個室のような雰囲気があって、とくに予約制というわけでもないが、ほかに空席があればあえて同じ空間を選ぶ理由もなかった。
優理は三人分の座席が余ったところに座り、眠そうに眼をこすりつつ、ドイツ語で記述された講演資料を読んで予習しながら発車を待っていた。
そんなとき彼女が視界の端に珍しい西洋の女の子が乗車したところを見たかと思うと、その女の子はまっすぐ優理のほうに歩いてきては、躊躇なく彼女の向かいにすとんと腰をおろした。
ほかに座席がけっこう余っていたので優理は面食らったものの、見た感じ小学生くらいの女の子だし、それでいきなり席を立つのもそれはそれで変なので、ほんのちょっとだけ一瞥してすぐ資料に目を落とした。
すると女の子がじいっと優理のまぶたを見つめてくるような気がして、優理は集中力を乱された。もともと子どもが苦手だったし、注目されるのも好まなかった。
女の子は洋服を着ていて、髪や瞳の色も明らかに日本人のそれではなかった。大正時代になって、西洋からの渡航者を見かけることはそこまで驚くことでもなかったが、それにしてもお金持ちばかりだったりして、この女の子になにかあったときには余計な厄介ごとに巻きこまれるにちがいないと優理は思った。ただでさえ彼女はいざこざを避けるために他人から遠ざかる気質があったし、それは彼女自身が当事者にならずとも、なにか事件が起きたときその近辺にいることもごめん被りたかった。
だからよりにもよってこの女の子が口を開いたことは優理にとって彼女の第一印象を、起伏のないおだやかな平和を壊して厄介な事件を呼び寄せる、はた迷惑な少女として記憶させるにじゅうぶんなできごとだった。
その西洋の女の子は、ドイツ語でこう言ったのだ。
「それ、科学論文だね。読めるの?」
たまたま優理はドイツ語を学んでいたので、彼女はそれを聞き取ることができた。それはいつも自信がなく積極的になれない彼女が思うよりもずっと正確なものだった。
しかし聞き取ることができても、言葉が出てこない。
ただでさえ彼女は初対面でここまで気さくに話しかけられることに慣れていないのだ。
「言葉、わかる? ドイツ語でしょ、それ」
優理は西洋の文化がまだよくわからなかったし、こういった場では話しかけるものなのかもしれないと思い、そして話しかけられた以上、なんの返答もしないのも失礼かと考えどうにか言葉をしぼりだした。
「……ええ」
「あは。すっごい、いい発音」
「そうでしょうか」
「そう思う。初めまして。あたしはマグダレーネ・バウムガルテン。きみの名前は?」
いきなり自己紹介され、優理は度肝を抜かれた。
(ドイツではそれがふつうなんだろうか)
優理はドイツ語を学んではいたものの、かと言ってドイツに行ったことがあるわけでもなければドイツ人と話したこともそんなになかった。
(……なら、失礼のないようにしなきゃな)
それにもしそれがふつうでないとしても、ここで彼女に無愛想に応じることにそれほどメリットがあるようにも思えなかった。
だから優理は答えた。
「初めまして、バウムガルテンさん。水無川優理と言います」
するとマグダレーネはうれしそうに頬をゆるませた。
(やっぱり。血は争えないんだね)
たまたまのことだが、人探しのために役所で見た戸籍に彼女の名前は載っていた。
彼女にとっては一〇〇年ぶりの再会だ。
しかしもちろん優理にとってはそうではない。
だから、その理由を説明することもなかった。
「ユ……」
マグダレーネが口ごもったのは、懐かしさのあまり思わずかつての親友と同じくらいの気軽さで声をかけようになってしまったとき、彼女のやや警戒の強いじとりとした目線に気づいたからだ。
当然のことだが、いくら面影を残し、そっくりにしか見えないとしても彼女は別人。
初対面で親しい態度で近づいていいわけがない。
だがそれ以上に彼女の目線には、かつてのマグダレーネがそうであったように、他人を寄せつけない強い警戒の……彼女生来の孤独を好むものが見え隠れしていたからだ。
外見こそ似ているが、彼女は連理ではない。それは単なる別人という以上に、人格的な部分で他者との関係性における基礎的な態度が……つまり、第一に孤独でいることを好むという意味で、彼女は連理とはまったく違う人間のように思えた。
それはまるで、かつての彼女自身を見ているような。
だから彼女はたずねた。
「……ミナガワさん、科学が好きなの?」
「ええ」
「あたしもそうだった」
「子ども向けの絵本とはわけが違います」
優理にはマグダレーネは一一歳の少女にしか見えていない。
そういった態度をとられることに、マグダレーネは慣れっこだった。
「ばかにしないで。それ、相対論でしょ?」
優理は目を丸くした。
「あたし、こう見えて日進月歩の科学技術が大好きなの。だから勉強した。それも、もう何年もまえにね」
「……信じられません。勉強ってどの水準でですか? 親御さんに読み聞かせてもらったくらいのことを言っているのであれば……」
「そうじゃない。論文を読んだの。たとえば、そうね……最近だとマックス・プランクの『量子仮説』とかはご存知かしら」
「……はあ」
優理はさすがにプライドを傷つけられた気がして、資料をたたんでひざに乗せた。
外国の教育課程のカリキュラムに優理は詳しくなかったが、日本のそれより難しいとか小耳にはさんだことはあった。
(ひょっとしてドイツではこれくらいふつうのことなのかな……読み書きそろばんくらいのことなのかも)
優理の浮かない顔を見て、マグダレーネはたずねた。
「悩んでるの?」
初対面にもかかわらずひとの心にずかずかと入り込んでくるようなこの小さな女の子のあけすけな質問に、優理はこれだから子どもは苦手だと思ったが、かと言ってなにも反応しないというのも失礼だと考えて答えた。
「なんのことですか」
「目を見ずに話すよね。いつもうつむきがちで。こわいの?」
「……」
優理はなにも答える気にもなれなかった。初対面でされてきもちのいい質問ではない。
「こわいんだ。ひとと話すのが……むかしのあたしそっくり」
優理はだんだんといらだちを覚え始めていた。
(なに、この子。変。『むかしのあたし』って、なに。まだ子どもなのに。いや、子どもだからか……だったら)
優理はもうまともにとりあう気もなくなっていて、目的地に到着したら、さっさとこのおかしな女の子から黙って離れることを心に決めていた。
そしてそれまでは適当に相槌を打っておけばいい。
優理は答えた。
「そうかもしれませんね」
マグダレーネはすこし悲しかった。
(……レンリ、これじゃあきみが浮かばれない。きみの〝心〟がいま、消えかかっているように思えるから。でも、だからってユーリちゃんはレンリじゃない。あたしがこの子にどうこう言うのも、おこがましいとは思うけど……)
彼女の心にいま葛藤が芽生えていた。
嫌われているのには、慣れている。
マグダレーネはたずねた。
「ミナガワさん、『こわい』ってなんだかわかる?」
彼女の謎めいた質問の意図を優理は理解しようと努力する気も失せていたが、字義通りに答えた。
「動物を危険から回避する行動をうながす中枢神経系の活動。負の強化子によって記憶に刻まれた嫌悪を想起すること……フラッシュバック」
「そうだね。ねえミナガワさん、あたしはこう思うの。なにかが『こわい』って思うのは自分自身の過去の経験によるものだって。なにかが『こわい』って思ったとき『おそれ』ているのはそのなにかじゃない、ほかならない自分自身の〝心〟なんだって」
優理はこの女の子の哲学的な弁論に、耳を貸す気があまりなかった。
「そうですか」
マグダレーネは拒絶を感じた。
こういうことにも慣れている。
こういうときは、あまり踏み込まないほうがいい。
「……あたしたちは、みんなお互いに影響しあって生きているんだよ。ミクロのスケールの粒子の相互作用から、マクロのスケールの天体運動に至るまでね。そして一〇年まえの蝶の羽ばたきほどのほんの小さな〝きっかけ〟が、今日のあたしたちをかたちづくるほど大きな影響を与えているの。人間関係なんてまさにそう。だれかになにかをしてもらってうれしいと感じたことを、ほかのだれかにもしてあげる。それが肝心なことだから。これだって受け売りなんだけどね。たとえば一〇〇年まえになにかの〝きっかけ〟があって、それがまわりまわって、いまこうしてあたしたちをむすびつかせているのかもしれない。きっとそれが〝運命〟ってことなんだと思う……あたしは、ね」