りん、りん、りん、りん、りん、りん、りん、りん。

 市ヶ谷の踏切から汽車の走る音が聞こえる。

 夕暮れ。

 明治四五年。

 東京府東京市。

 麴町(こうじまち)区。

 放課後の学校には黒いセーラー服の女学生と、教師と思しき女性がひとり。

 これは優理の記憶。

 しかし立場はちがう。

 優理はかつて先生を見上げていた。いまは生徒を見下ろしている。

 優理は当時の彼女自身の記憶のなかで、教師の側に立って幽理に教えていた。

 幽理は勉強家で、ほかの生徒がみんな帰ってこんな時間になっても帰り支度ひとつせず孤独に勉強を続けている。

 優理は心配そうにたずねた。

「幽理、まだ帰らなくていいの?」

 幽理は答えた。

「平気。どうせ帰っても、同じだから」

「同じって?」

「どこにいたって同じことをするもの。学校でも、家でも」

「同じならなおのこと、どうして家に帰ってお勉強をしないの?」

「……」

 幽理は答えなかった。

「家ではご両親と、お話はしないの?」

「しない」

 幽理は即答した。

「する必要がないもの。それより勉強をしていたほうがいい」

「どうして?」

「楽しいから」

「……どうして、そこまで頑張るの?」

 幽理は黙っていた。

 しかしやがて答えた。

「それがあたしに求められていることだから」

「そうなの?」

「うん」

「……だれかに、そう言われたの?」

 幽理はかぶりを振った。

「ううん」

「じゃあ、だれがそれをあなたに求めているの?」

「……あたし」

 幽理は答えた。

「あたしは常にいちばんじゃなくちゃいけないの。じゃないと、自分で自分が許せない」

「このまえの試験では、学年でいちばんだったじゃない」

「この学校でいちばんになったって、仕方ないもの」

「そうなの?」

「世界はもっと広いもの。こんなところでいちばんになったって、『井の中の蛙』なの」

「……じゃあ、世界でいちばんになるまで、そうやって頑張り続けるつもり?」

 幽理はうつむいてしまった。

「いずれ限界がくるよ」

「そんなことない」

「どうしてそう言えるの?」

「……そのときはそのときだよ。そんなことを考えたって、仕方ないもの」

「もしそうなったら、どうするつもり?」

 幽理は悩み、答えた。

「潔く死ぬよ」

「どうして?」

「そんなあたしなら、生きててもしょうがないもの」

「そんなことないよ」

「先生にはわからない。だって、あたしは……あたしは強くなくちゃいけない」

「強く?」

「ほかのひとの役に立って、必要とされて、大切にしてもらえるくらい」

「強い幽理ならひとの役に立って、必要とされて、大切にしてもらえるの?」

「そうだよ」

「どうしてそう言えるの?」

「だって弱いあたしはひとの役に立てないし、必要とされず、大切にもしてもらえない」

「その原因が弱いことにあるの?」

「そうだよ」

「そうなの?」

「そう。そうに決まってる!」


 夢のなかで、黒い蝶が飛んでいた。

 その輪郭はぼんやりと鬼火のような明かりを放っている。

 蝶の移動した経路には星が尾をひき、きらきらとした天の川をなしている。

 優理はきのみきのままに、水のおもてを泳ぐように、宇宙空間をさまよっていた。

 彼女には肉体がなく、ただ霊のみが銀河のふちをただよっている。

 動こうにも指のひとつも動かせず、海中を流されるくらげみたいに、ただかすかな意識だけがかろうじて世界を認識している。

 そのとき彼女の『後ろ』から声がした。

「やっと逢えたね、優理」

 彼女の耳元に届く声。彼女を護る、光の障壁。

 彼女が背後に意識を向けると、幽理が包丁で彼女ののどを狙っている。

「くそ、この!」

 彼女は左手を振りかざし、思い切り優理を狙って振り下ろしている。

 何度も、何度も。

 そのたびに『月の光の障壁』が目に見えるほどはっきりとしたかたちとして現れ、それを防いでいる。

「邪魔するな!」

 包丁のやいばが折れて弾ける。

 幽理はふわりと浮いて上方に後退し、すこし距離をとる。

 彼女の周囲に、たくさんの黒い蝶が集まる。

 幽理の左手を蝶が覆い、それは群をなして武器となる。

 スペード。

 彼女の身長ほどもある、土を掘るための大きなシャベル。

 彼女はそれを両手で握り。

 障壁が、ひときわ強く光る。

 衝撃は波となって伝わり、優理を覆う守護霊の輪郭をあらわにする。

 幽理の振りかざしたスペードは、何度も、繰り返し彼女を狙って振り下ろされる。

 そのたびに障壁は光り優理を護る。

 しかし何度も繰り返していると守護の力も目に見えて弱まる。もう数分ももたずいずれ火の粉が彼女の身に降りかかることは、この状況の奇特さ、不可解さを理解できずとも、優理にはわかった。

 そのとき守護霊が言った。

⦅優理、あれが幽理だ。嫉妬にかられ、きみを襲う『過去のきみ』だよ⦆

 優理はしゅんと顔を伏せて答えた。

(わかってるよ)

⦅ぼくがきみを護るのも、もう数分が限界だ。そうしたらきみは『きみ自身の力で』幽理と対決しなくちゃいけない⦆

(……無理だよ)

 優理は答えた。

(身体が動かない。金縛りにあったみたいに)

⦅じゃあきみは『運命』を、甘んじて受けいれるのかい⦆

(そうじゃないよ。だってこれはただの『夢』。『じっと耐え忍べば』いつか過ぎ去る。だからいまは『耐えるだけ』……そうすれば、いずれ……)

⦅たかが夢、されど夢だよ。もう永遠に目を覚まさないかもしれない⦆

(そんなわけない)

⦅……優理、きみはどうして、身体が動かないのかわかるかい⦆

(金縛りにあっているからだよ)

⦅じゃあどうして金縛りにあっているのか、わかるかい⦆

(……それが『悪夢』ってものだから)

⦅そう。ならどうして『悪夢』を見るのかは、どうかな⦆

 優理は口を閉ざしてしまった。

⦅きみはいままさに『葛藤』しているからさ。優理、きみはきみのなかの、ふたりのきみ自身……『善の側面』『悪の側面』の両面のはざまで『葛藤』しているんだ。幽理は『悪の側面』でも彼女は、あんなにも活き活き動いているだろう? 嫉妬と憎悪にかられ……どんなに褒められたことでないとしても、けっして『行動力』は絶やさない。常に『目的を見失ず』……『その目的のために行動している』。ところがきみは心に障壁をつくり、幽理を遠ざけてしまっている。『だから動けない』んだ⦆

 優理には不可解に思えた。

(それがわたしが『悪夢』を見る理由だっていうのは、わかる。でも『だから動けない』って、なに? わたしが『金縛りにあう理由』が……その『葛藤』にあるっていうの?)

⦅そうさ。優理、言ったよね。幽理は『きみ』なんだ。幽理はきみの『悪の側面』そしてこの世界のきみはそれをもたない、純粋無垢な『善の側面』のきみだ⦆

(わたしは……でも、ならどうして『動けない』の? わたしから『穢れ』を取り除けばわたしは『完璧』になる……わたしはあんな『醜い感情』なんて、いらないの。ずっと、それを捨てたかった。『それを捨てられたのなら』どうしてわたしは『動けない』の?)

⦅いいや、それを捨ててしまってもきみは完璧にはなりはしない。むしろきみという人間に必要不可欠なものが、足りなくなってしまう。いいかい。きみを突き動かす『行動力』の源泉は『羨望』。『憧れ』だ。それは『嫉妬』とうりふたつ……切っても切れない関係の情動なんだ⦆

 優理はそう言われて、やっとこの月の光の言わんことがわかった気がした。

 そう、彼女は常になにかに『憧れ』て生きてきた。

 憧れたものにすこしでも近づきたい。その一心で彼女は『未来を選んで』きたのだ。

⦅きみはすごい。尽きることない『羨望』の泉で生まれたような人物だ。その対象が知識に向けられたとき、きみは驚くほど偉大な科学者となるだろう。でも同時にとても『嫉妬深い』。その対象が他者に向けられたとき……きみは不幸な未来を歩むことになるだろう。満たされることのない『渇望』に飢え続け……いずれ思考のすべてをそれに支配される。それを『乗り越える』ことはほんとうに難しいことだ。でもそれはその感情を否定して、『穢れを祓う』ってことじゃない。きみ自身の『羨望』を乗りこなし、だれかを傷つけるためではなく、それを役立てるために制御するってことなんだ。でも、きみはいま『それを否定してしまっている』。自己否定によって『目的を見失ってしまっている』。だからきみは『動けない』。きみを突き動かし未来へ向けて歩ませる情動たる『羨望』を、その裏返しの『嫉妬心』とともに……否定し、捨て去り、遠のけてしまっているからだ⦆

 優理の心に、ひんやりと冷たいものが流れこんできた。

 ぴくりと、彼女の手が動く。

 寒い。

 動けはする。でも今度は寒い。かじかんで動けない。

 金縛りとはちがう。『生命の鼓動が始まり』『麻痺していた感覚が戻り』……『寒さを感じることができた』ことで……『動けるようになったことで動けなくなった』のだ。

 彼女はぶるぶると増え、両手で両肩を抱き寄せた。

(これがわたしの『理想像』……『穢れのないわたし』……)

⦅そう。すべての『欲』から解き放たれ、きみは行動する理由がなくなった。『知識欲』もないから学ぶこともなく……『嫉妬』もしないからひとにも迷惑をかけない……考えることもなければ動くこともない、まるで『人形』のような存在に……きみはなったんだ⦆

(うそよ!)

 優理は涙を浮かべて反抗した。

(こんなのわたしの『理想』じゃない。わたしは『自由に生きたい』それはわたし自身で考えて、行動するってこと。こんなの『わたし』じゃない!)

⦅そうだ。現実のきみは『自由に生きる』ことができているじゃないか。それが『きみ』なんだ。そしてそのために幽理は……ぜったいに欠かすことのできない、『きみの心』の一部なんだ⦆

 優理はだんだんと記憶を思い出し、それをなぞるように追体験した。これまでの人生のすべてのできごと。そのすべてがこの月の光の言うように、よいことも悪いことも、彼女の『羨望』に根ざしたことなのだ。

 そしてだからこそ、それがわかっていたからこそ、優理は幽理がきらいで、たまらなく彼女自身の内側から追い出したいと願ってきたのだ。

 しかしもしそうしてしまえば、彼女という人間はいないことになってしまう。悪いことがすべて消え去ると同時に、よいこともすべてなくなってしまうのだ。

 だったらどうすればいいのか、優理にはわからなくなっていた。

 両手のひらで顔を覆う優理の頬に、月の光が触れた。

⦅どうやらきみは、幽理がきみと不可分な存在だと気づいたようだね。でも、幽理はまだそうは思っていないようだ。きみは幽理と仲直りしなくちゃいけない。それはきみにしかできないことなんだ⦆

(嫌よ……わたしにそうしてくれたように、あなたが、あの子にそう言って)

⦅それはできない。『きみがそうしなければ』これは意味のないことなんだ⦆

 すると月の光は集まって、ちょうど満月のように、真円の盾となった。

 盾は彼女の目前にのぼり、彼女は顔をあげてそれを両手で包む。ほんのりと暖かい光が優理の心の雪を融かしてゆく。

 いま彼女は寒さを感じておらず、ぽかぽかと暖かく動けるようになっていた。

⦅優理、ぼくは盾だ。盾は『誇り』の象徴。きみの『善の側面』⦆

(……あなたはわたしを護る『盾』……それが『誇り』なの?)

⦅そうだ。でも『羨望』に善悪の二面性があるように『誇り』にもふたつの側面がある。『誠実さ』と『傲慢さ』だ。もしその『誇り』を守るという『かたちだけの虚飾』に目を奪われれば、きみはたちどころにプライドが高く傲慢な人間に成り果て、いずれあわれな最期を迎えるだろう。でも『誇り高さ』とは他者に分け隔てなく『敬意』を払い『他者の幸福を祝い、不幸を悔やむこと』なのだということに目を向けることができたのなら……それはきみが生涯失うことのない『強さ』となる⦆

(それがあなた……わたしの目に見えない、わたしがまだ目を向けることのできていない『わたしの強さ』……)

⦅そうだ⦆

(じゃあ幽理は……?)

⦅幽理は『(つるぎ)』。剣は『勇気』の象徴。『困難に挑み、未来へ歩む』前進する力。現状を変える力だ。『誇り』は後退しない力。現状を維持する力。でもそれだけじゃまえへとは進めない。きみには幽理が必要なんだ。盾と剣は『騎士』の両翼。『剣だけでは矢の雨にあらがえず』『盾だけで敵を退けることはできない』どちらが欠けてもまえへ進むことはできない。幽理の心は矢の雨にさらされぼろぼろだ。きみが彼女を救ってあげなくちゃいけない。それは『きみにしかできない』ことなんだ⦆


「このっ!」

 幽理のシャベルが振り下ろされる。

 ずんぐり。

 重い感覚。それは電磁波のような『障壁』に防がれたものとは異なり、しっかりとした『物質』に直撃した感触。

 ついに『障壁』を突破したのだ。

(やったっ!)

 ついゆるむ、幽理の心。

(ついに『届いた』! 優理に届いたんだっ!)

 それはどこかうれしそうな、表情。

 しかしそこに幽理の予想していた惨状はなかった。

 そこには銀色の盾をかまえ、彼女のつるぎを受けとめる優理がいた。

 盾はまるで月のように、星々の光を反射して輝いている。

 それは幽理には眩しく、とても直視できなかった。

「幽理、いままでごめんね」

 優理の顔からいま迷いが消え、力強く幽理の目を見て話していた。

(ひ)

 幽理は目をそらした。彼女が直視できないのは盾の光ではない。優理の自信に満ちた瞳だった。

 優理は盾で彼女のつるぎを退け、言った。

「さあ、きなさい。幽理……何度でも! 受けとめてあげるから」

 挑発を受け、幽理は神経を逆なでされたみたいにきもち悪くなった。

「だったらっ!」

 二度、三度。

 幽理の怒りを、優理は受けとめた。

 憧れるものに対する、浅ましい妬みの感情。好きなものを汚し、愛するものを壊したいという欲望。

 尊敬するひとに近づきたい。一緒になりたい。しかし『近寄る』ことができないなら、『引き寄せる』しかない。

 それが『羨望』。

 幽理は亡くなってしまった。過去に置き去りにされてしまった。もう優理の生きる未来に『近寄る』ことはできない。なら彼女を幽理の死んだ過去に『引き寄せる』しかない。

 そんな自分勝手な感情。好きなのに相手を傷つけ悲しませることでしか『引き寄せる』ことができない。

 傷ついて、悲しんでいる自身と同じ感情を感じてほしい。理解してほしい。

 だから傷つけ、悲しませたい。

 そんな醜い感情を、いまの優理は跳ねのけずに受けとめてくれる。

 以前はそうではなかった。優理は変わった。幽理の攻撃的な態度に、常に防衛的で……拒否するばかりだったあの優理が、いま幽理の言葉に、真摯に耳を傾けてくれている。

 なのに幽理はいままでと変わらない。こうやって危ないもので、優理を何度も何度も攻撃している。繰り返し繰り返し傷つけようとする。

 幽理はそんなことばかりをする幼稚な彼女自身が、恥ずかしくなった。

 幽理は彼女の『誇り高い』目を見ることができない。

 目を見て話すのはこわいのだ。

 それでも彼女なりに、せめてその真摯な態度に応えたいと思えた。

 だから彼女はシャベルをおろして答えた。

「な、なにやってるの。こんなこと続けて、なにがしたいの!? いつもみたいにさっさと消えたらどうなの。いつまでこんなこと続けるの!?

「あなたの気のすむまで、いくらでも。何時間、何日、何年……何世紀でも何億年でも、これからいくつの新しい星が生まれて古い星が寿命を迎えても、何回宇宙が終わっても、あるいは新しい世界が始まっても……幽理が納得できるまで、いくらでも」

「納得!? なんのこと。あたしは優理が死ぬまで納得しない」

「ちがう。幽理、あなたはわからないだけ。『どうしたら自分が納得できるか』それさえわからないだけなの」

「はあ!? あたしは優理が死ねば納得する。優理が死ねば……優理が生きてるから納得できないんだ!」

「そうやってだましだまし考えるのは、もうやめなさい」

「だましてない。正直だよ!」

「あなたは正直に言ってるつもりでも、あなた自身があなたに騙されてる。『どうしたら納得できるか』を知りたい。知りたくて、知りたくてこうやってあがいてる。それは悪いことじゃない。じゃないといまのわたしはいないから」

「そう。そうだよ。だから正しい。でもね、あたしはもうわかったんだ。『どうしたって納得することなんてありえない』ってね。優理もそう思うでしょ? 思わない? もう、生きててもしょうがないんだよ」

「……思ってた。でも……」

 優理は顔を伏せ、正直に答えた。

「……幽理の目標は、もう達成されたんだよ。だからもう頑張らなくていいの」

「は? 目標って、なんの目標?」

「勉強して、勉強して、幸せになりたかった。そうでしょ?」

「そうだよ。でもあたしは死んじゃった。不幸になっちゃった。あたしの目標を、優理がぜんぶ奪ったんだ!」

「ちがう。幽理、あなたはわたしなの」

 幽理はぞぞぞと鳥肌を立て、身体を震わせた。

「きもち悪いこと言わないで!」

「幽理のなりたかった『だれか』がわたし。ずっと『だれか』の背中を追いかけて生きてきた。でしょ? それがあなたが『未来へと歩む』すべての動機。『憧れ』『羨望』……『嫉妬』。『過去から追いかけてくる』あなたを否定したら、いまのわたしはない。いまのわたしはあなたが『未来を追いかけて』きたからあるの。幽理、あなたの夢はかなったんだよ」

 幽理は怒りを奮わせ、シャベルを振り上げる。

 すとん。

 優理は盾から手を離していた。

 彼女の手から落ちた盾はたちまちのうちに星くずのように砕け、きらきらと流されて、銀河の大海に消えた。

 幽理はひるむ。両手を振りかざしたまま、振り下ろせずにいる。

 躊躇している。とまどっている。

「なに、してるの」

 幽理はたずねた。

 いま彼女を護るものはなにもない。

 このままシャベルを彼女の頸部めがけて振り下ろせば、彼女のいのちを奪うことは一六歳の少女の力でも難しいことではない。

 それを『選ぶ』ことができたなら。

「どうして盾を捨てちゃったの。あたしを挑発してるつもり!?

「ちがう。もう『盾』は必要ないから」

「どうして!?

「攻撃してくるつもりのない相手に構える必要はないでしょ」

 幽理はかちんときた。

「そうするつもりがないって、どうしてわかるの? 勝手にあたしの考えを決めつけないで。あたしは『あまのじゃく』なんだよ。だったらしてやる。迷わず!」

「迷わず? いま現に『迷って』るのに?」

 幽理はうろたえた。

 そう。彼女は迷っている。

 幽理はずっとこのときを待っていた。それを望んでいたはずなのに。

 いざとなるとそれを『選べない』。

(どうして)

 幽理は彼女自身の内心がわからなくなった。

(どうして? これは『簡単』なことなのに。『することは簡単なのにすると決めることが難しい』のはどうして!?

 幽理はおそれていた。

 なにをおそれているのか、彼女にはわからない。

 決めさえすればできる。それだけですべてが終わる。往年の願いが成就しこれ以上悩むこともなくなる。にもかかわらず彼女は決められない。『決断』できない。

(こわい……『ここですべてが終わってしまうのが』こわい)

 幽理は『葛藤』していた。彼女がなにを望んでいるのか、それさえもわからなくなってしまったからだ。

 振りかざされた彼女の冷え切った手首に、想い人の暖かい手が、優しく添えられた。

 冬の雪景色が氷解し春がおとずれるように、つるぎはたくさんの蝶となって天に昇る。

 幽理の両手はそのまま誘われるようにおろされて、力の抜けた彼女の腰と肩を、優理が包んだ。

「わかった? 戦う必要がなければ『剣』も『盾』も必要ない」

 幽理はいま優理に抱きしめられて、彼女の胸に顔をあずけていた。

「でも……あたしは、まだ戦わなくちゃいけない」

「だれと?」

 幽理にはもうわからなくなっていた。

 だから正直に答えた。

「……わからない……」

「教えてあげる」

 優理は彼女の肩をとってすこし離し、彼女の目を見て言った。

「あなたが戦わなくちゃいけないのは『未来』。でもそれはわたしじゃない。わたしの、『優理の可能世界の未来』なんだよ」

「……優理の、未来……」

「そう。でもあなたは悪くない。ぜんぶわたしの……わたしが『未来と戦う勇気』を過去に置き去りにしてきてしまったから。あなたはずっと『未来と戦っていた』……あなたは正しい。勇敢で、すごくかっこいい。そしてそれはなしとげられたんだよ。だからわたしは『いまここにいる』の。あなたが『未来に挑み続けたから』……いま、わたしはここにいるの」

 幽理の頬に、涙がつたっていた。

 雪が解けていた。

 優理の熱が彼女に伝わり、彼女の心と身体は暖かくなっていった。

 優理は幽理の頬に手を添えた。

「むしろ感謝しなくちゃいけないくらい。わたしは『未来に挑む勇気』を失っていたの。『誇りを守ることに精一杯で』……『いまあるものを失わないことばかり気にして』……ほんとうに大切なものを、見失ってた。大人になってから『未来へ進むためでなく過去に置き去りにされないために学び』……『他者を尊敬し誠意を伝えるためでなく他者に軽く見られないために礼儀正しく』した。いつもひとの目ばかり気にして。ほんとに、かっこ悪い」

「そんなことないよ。優理は……」

「ううん。いいの。慰めてほしいわけじゃない。気にしてもない。ただいまにして思えばどうなのって思っただけ。それにもっとずっとあとになって気づいても遅かった。だからむしろ、いまそう思えたのってすごく……『幸運』なんて言葉は使いたくないくらい……きっと、いいことだって思ったの。だから、ありがとう、幽理」