実理はリバーズ邸に招かれ、アリスの部屋でひと息ついた。

「ありがとうございます、リバーズさん」

「アリスでいいわよ、ミノリ」

「……アリスさん」

「ミノリ! 『さん』なんて名前にはつけないの!」

「ぶ、文法的にはそうですが、失礼ではないでしょうか」

「アリス『さん』なんて呼ばれるほうがよっぽど失礼よ。アリスって呼んで」

「わかりました。えっと、アリス」

「上出来よ」


 この日のためにアリスの部屋には二段ベッドが用意されていた。

「部屋はたくさんあるのだけど、ほとんどメイドの部屋なのよ」

 ドクター・リバーズのような中流階級は、上流階級ほどの財力がないにもかかわらず、労働者階級よりも世間体を気にして使用人をたくさん雇用することがある種のステータスと考えており、生活はそんなに楽でもなかった。

「うちもそんなにお金持ちなわけじゃないの。ごめんね。うえとした、どっちがいい?」

「えっと、じゃあしたで」

 実理がしたのベッドで眠ることになった。

 実理は二段ベッドのカーテンをしめて動きづらい振袖の帯を緩め、普段着の葡萄茶袴に着替えようとする。

 しゅるしゅるという衣擦れの音でアリスはそれを察して、彼女に言った。

「着替えづらくない? 女同士なんだから、べつに隠すことないわよ」

「で、でも」

「これから何年も一緒なのよ。そんなことで気を遣っていたら身がもたないわ」

「……」

 実理はたしかに、と思ったものの、やはり初対面で素肌を見せるのは恥ずかしく、そこで葡萄茶袴に着替えた。


 実理はアリスに日本の武芸を披露した。もっとも部屋の面積が足りずかたちだけの簡単なものだった。

「これは薙刀。いまはそうでもないですけどむかしは武家の娘のたしなみでした。見世物じゃなくて、ほんとうの戦闘術としてです」

 彼女は薙刀を両手でもち、軽く振って見せた。

「ふむふむ」

 アリスがふしぎそうに刃に手を伸ばし、実理はとっさに薙刀を戻した。

「これ、あくまでも真剣なので危ないです」

「そうよね。実理はそれを習っているの?」

「はい。両親が古い時代のひとたちで、子どもの頃から武芸を教わりました」

「古いって?」

「明治は廃刀令と言って、もう武器を持ち歩く時代じゃないんです。幕末の時代には武器を携えることがふつうで、道端でいきなり切り捨てられることもあって、戦闘術の習得は必須のことでした」

 実理はまた長弓を見せた。

「これも本物の、古い武器です」

「いつぐらいのもの?」

「すくなくとも幕末以前のものですね」

「へえ」

「心配性なんでしょうね。倫敦も、こんなものを持ち歩かなくてもいいはずです。むしろ先進的な国々ほど、そういった安全は保障されています。でも幕末を生きてきた両親は、娘が外国にひとりで留学するというのに、身を守るすべがないというのは気になるのだと思います」


 アリスは実理にロンドンのあちこちを案内して紹介した。マチルダが馬車の手綱を握りふたりはすこし高めの客車に隣あって座っている。実理は葡萄茶袴の姿で両脚をぴったりと閉じて、ひざに両手を添えていた。

「ここはウェストミンスター! 女王陛下もいらっしゃる、ロンドン文化の中心地よ」

 彼女はバッキンガム宮殿の周辺で実理に説明した。

「あれは『クレオパトラの針』というモニュメント。一八七八年にエジプトからロンドンにもちこまれたものよ」

 馬車はテムズ川沿いを通り、アリスは奇妙な文字の刻まれた石碑を指して言う。

「でもこの一〇年、あそこでは事件が耐えないのよ。ファラオの呪いなんて言われることもあるわ。もちろん都市伝説もいいところよ」

 そして馬車はテムズ川をさらに東へと進む。

「ここはシティ・オブ・ロンドン! 経済の中心地よ」

 ウェストミンスターに比べ、明らかにホームレスが増え街の景観も悪化し、治安も悪くなっていた。

 そこで馬車は急に西へと引き返す。

 実理は驚いてたずねた。

「ここから先には行かないんでしょうか?」

「ええ。行ってもしょうがないわ」

「なぜ?」

「シティの東はイーストエンド。ロンドンでもっとも危険な地域よ。あなたもぜったいに行ってはだめ! とくにホワイトチャペルというところへはね。あのあたりは最近殺人が耐えないのよ。なにがあってもおかしくないわ。それこそ殺されたってね」

(……)

 実理はそれを聞いて、なにか思うところがあった。


 馬車はウエストエンドを一周してリバーズ邸に戻った。

「お疲れさま」

 アリスは客車を降りて実理に手を伸ばした。

 実理は彼女の手を握り、高い客車から慎重に降りようとして、脚をひっかけてしまう。

「おっと」

 アリスは彼女を支える。

「慣れないと乗り降りもなかなか難しいのよね。わたしも最初、そうだった」

 実理の靴は西洋もののヒールのついたブーツだった。アリスがお近づきのしるしとして贈ったものだ。サイズはぴったりだった。

 実理は気になっていたことをたずねた。

「イーストエンドに行ってはいけないのでしょうか」

 アリスはきょとんとする。

「行ってみたいの? なにもないわよ」

「いえ、でも、ただ、都合の悪いことから目を逸らしたくはないなって。いいことばかりが世界ではありませんから。語学を学ぶのであればやっぱりそういった文化も一緒に学ぶ必要があると考えています」

「そうね、同意するわ。わたし、実は戯曲家を目指してるの。そういうことも取材しないといいお話はつくれないというのがわたしのモットーよ。危ないところだけど、もし興味があるならいちど行ってみましょう」