一八八八年(明治二一年)八月三〇日、アリス・リバーズはロンドン港で堂々と両腕を組み、きたる日本の留学生をいまかいまかと待ちわびていた。
彼女の隣にはリバーズ邸のメイドのマチルダがいた。短めの金髪で、瞳は鋭く強いものだった。
マチルダは労働者階級を出自にもつ、いわゆる『叩き上げ』の女性だった。一九世紀のイギリスの階級社会は厳しいうえに、さらに女性が働くということも珍しかったこの時代におけるメイドという職業は労働者階級の女性が中流階級の邸宅に住み込みで働くという名誉な仕事だった。
そしてアリスのように、貴族ではないものの伝統的な専門職に従事する中流階級の身分の人間は、メイドを雇っていることを周囲に誇示することで世間体を保つことができた。彼女がメイドを連れてきた理由はそれだった。
「遅いわねえ、いつになったらリンカマルゴーは着くのかしら」
「あと一時間ほどかと」
マチルダは懐中時計を見て答えた。
燐火丸号の船内で、実理は電報を打った。
《間もなく倫敦です。リバーズ卿のお迎えのかたに倫敦港で待つようお伝えください》
そして船は入港し、実理は振袖で、身長以上の大きな薙刀と長弓を抱えるように持ち、桟橋を歩いていた。
「遅いわ!」
彼女のまえにいきなり仁王立ちする少女が現れて、実理は驚いて足を止めた。
「……ひょっとして、リバーズさん?」
実理はおそるおそる質問した。
「そうよ。わたしはアリス・リバーズ。あなたが例のミナガワ・ミノリさんね」
「はい、そういうあなたは、リバーズ卿のお嬢さん」
「そうよ。英語を学びたいと聞いてるわ。わたしは日本の文化を知りたいの! いろいろ教えてあげるから、いろいろ教えてちょうだい。これからよろしくね!」
実理は彼女の天真爛漫さにちょっとめまいがしてしまった。
「よろしくお願いします……えっと、そちらは」
マチルダは礼儀正しく答えた。
「マチルダです。リバーズ邸でお嬢さまの身辺のお世話をさせていただいております」
「侍女さんでいらされましたか」
「おそれおおい。わたしは一介の家事使用人です」
「……難しい」
実理は侍女と家事使用人という英単語のニュアンスの違いがよくわからなかった。
アリスは実理に言った。
「雇用形態はね。でも仲良しだから侍女のようなものよ」
「ど、どういうことですか?」
「ええっと、要するに、侍女は家族の一員、家事使用人は家族に雇われているというだけで、家族の一員というわけじゃないの」
「英語のファミリーの概念は知っています。血縁としての親族ではなくて、人生をともにする仲間というニュアンスが強いのですよね」
「そうよ。マチルダはもう何年も一緒だし、雇用形態こそ家事使用人だけどファミリーと言ってもかまわないと思っているわ」