「人殺しー!」

 ホワイトチャペルの深夜に、少女の金切り声が響いていた。

 イーストエンドのこの街ではそんな叫び声は珍しいことではなかった。そういう冗談を言うことは日常茶飯事だし、だれも気に留めなかった。

 アリスはメアリーが殺害され、解剖されている現場を目撃してそのあまりのおぞましさに目をまわし、大声で助けを求めてテムズ川に沿って、西へ西へと走っていた。

 その声に驚いたのはジュリアンだ。かれはそれを聞いて、『見られた』と感じた。

(だれだ! くそ、そいつも消さないと)

 かれは飛び跳ねてその声の主を追った。


 実理はここ数日、アリスが深夜に留守にすることが多いことが気になっていた。それは『切り裂きジャック』の正体を知っているというあの女性が訪問してよりのことだった。彼女は虫の知らせを感じ、薙刀と長弓をとってホワイトチャペルへ向かった。

 クレオパトラの針は、ちょうどホワイトチャペルとウェストミンスターの中間あたりに位置していた。

 実理はそこからすこし離れた場所でアリスがテムズ川沿いにくだってきているのを見てほっとする一方、泣きじゃくる彼女にただならぬものを感じ、彼女を胸に抱いて聞いた。

「なにがあったんですか?」

 アリスは実理の胸のなかで、わんわん泣いて訴えた。

「あの、あの、あのひとの言ってたことは、ほんとだったのよ」

「……つまり?」

「彼女、殺されたのよ! 彼女は身をもって犠牲者になりわたしたちが目撃者になるよう仕向けたんだわ。はやくスコットランドヤードに知らせないと」

 実理はクレオパトラの針の裏から、何者かがこちらを見ていることに気付いて答えた。

「その必要はないようです」

 実理は長弓をとり、そこに向けて矢を射る。

 針の裏で、何者かが驚いて音を立てた。

「出てきてください。決着をつけましょう」

 実理は薙刀を両手にもち、構えた。

 するとすう、と、物陰から何者かが現れつつ言った。

 両手にもつ、血のりのついたナイフ。

「おいしい話なんてない、彼女はそう言った」

 娼婦に扮装した中性的な声の少年。

「人生は戦いの連続だ。おれにとってはこれが最後の戦いだ」

 実理は答えた。

「わたしたちは、あなたと戦う理由がありません」

「おれにはある。おれのしたことを知っている者がひとりでも残っていれば、おれに真の勝利は訪れない」

「……あなたは戦って勝つことでしか生きるすべを知らない、かわいそうなひとですね」

「どういう意味だ?」

「生きるためにとれる手段は、それだけじゃないってことです。苦しいなら助けを求め、困っているなら他者を頼る。誠実に生きていれば必ずだれかがあなたのためを想って手を差し伸べてくれる」

「ロンドンの格差社会で、だれがおれのことを? 金のあるやつが金のあるやつを助けるだけだ」

「それでも悪事に手を染めるよりはずっとよかったはずです。あなたの身近にはあなたのことを想ってくれるひとは、ほんとうにひとりもいませんでしたか」

 ジュリアンはその言葉に後悔を感じた。

「……差し伸べてくれたひとは、いた。おれはその手を突き放してしまった」

「きっとそれがあなたが引き返すことのできる、最後の機会だったのでしょう。わたしにできることはもしあなたが向かってくるなら全力で戦い、もしあなたが逃げるなら見逃すことです。繰り返しますがわたしにあなたと戦う理由はありません。わたしは警察でも、ましてやこの国の人間でもありません。あなたが逃げたからといって追いはしませんよ」

「だが通報はするのだろう」

「ええ。黙っていることはできません」

「……なら、戦うしかない」

 かれは血のりに染まった二本のナイフを構えた。

 実理は薙刀を振り、戦闘態勢に入った。

「勝負は見えています。武器の長さも違う。失礼ですが構えもきちんと訓練を受けたひとのそれには見えません」

「だったらなんだ」

「勝ち目のない敵には挑まない。戦術の初歩の初歩です。これは、わたしなりにあなたを想っての忠告ですよ」

「ほざけ!」

 かれは走ろうを脚をもちあげ、瞬発的に実理は後ろに跳んで距離をとる。

 彼女はかれとの最適な間合いを保ち、薙刀の柄でかれの両手を叩いて武器を落とした。

 きんきんと跳ね、ナイフはテムズ川に水没する。

 彼女は武器を失ったかれのまえで薙刀を立てる。

「勝負ありです」

「まだおれは生きてる」

「いのちまではとりません」

「素手でも戦える。おまえなんて」

 すると実理は薙刀と弓をアリスに渡し、柔術の構えをとった。

「きなさい」

「う」

 その行動に自尊心を傷つけられたジュリアンはボクシングのように両手を構え、彼女に殴りかかる。

 ジャブで牽制して距離を詰める。

「悪くない。素手での戦いには慣れているようですね」

 実理はかれのストレートを舞うようにしのいで脚を薙ぎ払い、かれの足元をすくった。

 バランスを崩し体勢を整えようととんとんと何度か跳んで、かれはやっと転ばずに立つことができた。

「足元がおろそかです」

「蹴りならおれもできる」

「蹴り技じゃない。隙だらけですよ。攻めるとき、拳にばかり集中していますね。足元をすくうことも簡単ですしおなかに蹴りをいれることもできました。受けができていない」

「……必要ない」

「必要ない相手とばかり戦ってきたのでしょう。これ以上戦ってもむだですよ。わかってください」

 かれのストレスは最高潮に達していた。

 かれがさらになりふり構わず、勢いよく距離を詰めようと駆け出した瞬間。

 約三〇度の角度で、斜め上方、ほぼ真横からかれはこめかみを狙撃された。

 あっけにとられるアリスと実理。

 実理はテムズ川の向かいに、ロンドンの街並みの屋根に隠れる狙撃手の存在に気付く。

 かれはその場で崩れるように倒れクレオパトラの針の先、テムズ川に真っ逆さまに落下した。