一八八八年(明治二一年)一一月。
リバーズ邸に、若い女性の訪問者が現れた。
「アリス・リバーズさんはご在宅で?」
マチルダが受け答えた。
「お嬢さまは現在お部屋でお友達と一緒です」
「すこしふたりにお話がありますの」
「ふたり?」
「日本人のお友達でしょう? 戯曲を書くのに、よいお話があるとお伝えくださいな」
マチルダは女性に計画的なものを感じ不審に思ったものの、言われたとおりにした。
アリスと実理は客間で、メアリーと名乗る女性と対談した。
「お初にお目にかかります。わたくし、メアリー・ケリーと申します」
言葉の訛り具合から、アリスは直観的にアイルランド系と感じた。彼女は身なりをよくしてはいるものの、ひとつひとつの所作に不慣れな感じが現れていた。
「初めまして。ご存じでしょうけど、わたしはアリス・リバーズ」
「ミナガワ・ミノリです。日本からの留学生で、リバーズ卿にお世話になっています」
「そう、日本からの」
メアリーの妖艶な笑みは、実理に単なるお姉さんというだけでなく、もっと大人の香りを感じさせた。
「リバーズさん。単刀直入に言いますと、わたくしは『切り裂きジャック』と呼ばれる者の正体を知っています」
ふたりはぎょっとした。
「聞き間違いでしょうか」
アリスはたずねた。
「でもスコットランドヤードは耳を貸してくれません」
実理は言った。
「そういう虚偽の通達は毎日のように届くでしょうね」
アリスはあまり疑っていなかったものの、実理がそう言ったことでうそじゃないかとも思ってしまった。
「仮にそれがほんとうだとして、どうしてわたしたちに話すんです?」
メアリーは不敵な笑みを見せた。
「あなたたちなら真剣に聞いてくれるかと思いまして。おふたりともいろいろ調べていると耳にしました」
「真剣に聞いたとして、それを話すことでわたしたちになにを求めていますか」
実理は質問した。
「犯人を捕まえてほしい。ミナガワさんには武術の心得があると聞いています」
「無理ですよ」
実理はきっぱりと断った。
「危険ですし、第一わたしたちになんの得があるんですか」
「お金は払います」
「いくら」
アリスはそのあたり目ざとく質問した。
「三〇〇〇ポンドでどうでしょう」
三〇〇〇ポンドというのは平均的な男性の年収の一〇倍以上もの大金だ。
「三〇〇〇ポンド!? ケリーさん、申し訳ないけどあなたにそんな大金が払えるだけの蓄えがあるようには見えないわ」
とはいえアリスにとってそれは本当なら心動かされる条件ではあった。
(戯曲を書いたって、オペレッタを開くには演者を雇ったり、劇場を借りるお金もいる。貴重な経験にもなるし……)
ケリーは言った。
「やんごとなきかたがバックにおりますので」
「やんごとなきかた?」
アリスはなんだかんだで、イギリスの階級社会を必死に生きる少女だ。彼女のバックにより上流階級の何者かがひそんでいるとすれば、彼女にとってはその何者かに恩を売って名をあげる機会でもあった。
彼女はあざとく質問した。
「それってだれなの?」
「さあ」
「答えられないならこの話はなしよ」
「わたしにもわかりません。ただお金なら払えますよ」
アリスは半信半疑ではあったものの、不確実な未来へのリスクは負わない主義だった。
「お断りするわ。情報が不透明だし、怪しすぎるもの。もし真剣に考えているならきちんとスコットランドヤードを頼るべきよ」